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『鏡越しの恋歌』が最高の恋愛小説だって話

 ネットには星の数ほど小説が公開されていて、面白いものもあるけれど、そのクオリティは玉石混交だ。その中で、東海林春山さんの『鏡越しの恋歌』は異質だ。あまりにレベルの高すぎる文章に、フィクションでありながら現実との接地点を見失わない絶妙なバランス感覚に、一瞬で引き込まれた。恋愛に発展するまでのじりじりするような心の機微、すれ違いながらも共に前を向いてしんどい現実と立ち向かう勇気、世の中に消費されない美しさを模索しながら人に影響を与えていく強さ、その全てがユーモアと圧倒的な表現力で包み込まれている。

 当時、更新されるのが待ち遠しくて、何度も読み返した。完結した後、この作品の素晴らしさを伝えるべく文章にしたいと思ったけれど、私はこのスケールの大きな作品を語るに足る語彙や表現を持ち合わせていないことにがっくりとしてしまって、できずじまいになった。

 その後、東海林春山さんは短編をいくつかと長編を1つ(『微熱の糸が灼きついてほどけないので』)公開されたが、その後1年以上活動しておらず、Xのアカウントも削除してしまった。

 ただ、確かなのは、『鏡越しの恋歌』がいつまで経っても色褪せない最高の小説であり、もっと多くの人に読まれるべきだということだ。ネット小説に縁のない人にも届いてほしいから、noteにその素晴らしさを書き連ねようと思う。なお、以下私のnoteはネタバレを含むから、ぜひまずは実際に小説を読んでほしい。一方で、私のnoteを読んでからこの小説を読んでも、その素晴らしさは少しも失われないことも断言する。


あらすじ

 新人モデルの玲は、ヘアメイクアーティストの瀬戸穂高と出会う。初めはあくまでメイクを施す人だった穂高がマネージャーになることで、二人の関係性が変化していく。いつでも自信を持たせてくれる、行くべき道を照らしてくれる穂高に恋心を抱き始める玲に対して穂高は絶妙な距離感を保つが、とうとう二人は思いが通じ合い、恋人同士になる。

 破竹の勢いで芸能界を駆け上がる玲を穂高は献身的にサポートするものの、仕事とプライベートのバランスをとるのが難しくなる。玲を守ろうとする意識が空回りするあまり、穂高はある決断をするが…

交わる視線・交わらない視線

 「美しい人」を中心に据え、メイクアップアーティストという職業を描いたこの小説では、「視線」というモチーフがそこかしこに現れる。

 そもそもこの小説は、穂高の玲に向ける視線が描かれる場面から始まる。

 ――まるで天から落ちてきた人みたい。

 扉のないメイク室に入って、探すことなくすぐに目が惹きつけられた。
 彼女の存在するそこの空間だけ、光が射しているように感じた。

プロローグ - 初茜の出会い

 穂高が玲に対して向ける視線はいくつもの種類で描きわけられている。一人の人間として、美しい人に自然と吸い寄せられる視線。職業人として、メイクを施すべき素材である顔を吟味する視線。恋人として、愛しいものを眺める視線。玲が穂高を見つめる視線もまた様々だ。恋焦がれて熱を持っていたり、挑戦的だったり。

 交わされる視線はメインの二人の間だけではない。玲がライバル視するモデル・未唯に対して、玲や穂高は視線を投げかけるもするっと交わされてしまう。かと思うと、未唯がじっと見つめてくることもある。言葉なくとも、視線が彼女の人となりを表している。

 言葉が通じなくても、視線が伝えてくることもある。玲と穂高は撮影のためスペインを訪れて、現地の写真家アンドレと知り合う。アンドレは二人が睦まじくしている様を偶然見かけて、その関係性を察する。翌日の撮影で、アンドレは穂高(アンドレは「ホッター」と呼ぶ)にクリエイターとしての技量を試すような視線を向ける。

「昨日は君たち二人で街を回ったんでしょ。ホッターも、ホッターのスペインを表現してみたらどうかな」
「え、私が?」
「うん。君のやりたいメイクを試してみなよ」

 温和な彼の瞳へ灯る、かすかに挑むような気配。

 ――お前は、こんなに才気溢れる玲の隣に並び立つ資格があるのか、と問われているような気がした。

『それでも恋するetc.』(『トーク・トゥ・ヒム_Ⅳ』)

 あらゆる関係性の中で交わされる数々の視線が網目のように張り巡らされている。「人を見る」ということを徹底的に追いかけて描いていることに、この作品のまず一つ目の凄みがある。

「美しさ」という魔法/呪い

 この物語が生まれるきっかけになったのが、メイクルームで穂高が玲に「綺麗です」と言葉をかける場面だ。

 いつも通り、彼女の肩へ手を添え、鏡に向かって言う。
 鏡越しならきっと石にならずにすむ。

「綺麗です」

 彼女は満足げに、頷きひとつ。いつも以上に、艶やかに。

「ありがとう」

 少し傾けた小首から、輝く髪がこぼれ落ちる。
 私はどうしても、その堂々と、ふてぶてしく美しい玲の姿へ崇拝に似た気持ちを抱いてしまう。

若竹の視線の交錯(孤高の人_Ⅲ)

 「綺麗です」というのは、玲に魔法をかける言葉であると同時に、「綺麗だ」という事実を世界に対して宣言することでもある。では、「綺麗」って、「美しさ」って、結局なんなんだろうか、ということにこの小説は真っ向から向き合う。ともすればルッキズムに陥るか、「みんな違ってみんないい」というようなふわふわした理想論に着地しがちなテーマを、絶妙な匙加減で運んでいく。

 まず、生まれながらにして美しい人は、他人を圧倒する力を持つ、と穂高は言う。

貴方は、世界を圧倒できる美しさを持ってるんだよ! 美しい人っていうのはそこにいるだけでみんなを幸せにするんだよ! まじで! 色んな綺麗な子を見てきたヘアメイクさんが言うんだから、こりゃあもう本当に間違いないです。でもまずは、自分が幸せでいて! 綺麗かつ幸せな玲さんだったら、世界はもっとまじでハッピー!

麦青む散歩と心臓セッションフェスティバル

 穂高はそういう圧倒的な美を無条件に称揚する無垢さを持ちながら、ヘアメイクアーティストとして自ら「美」を生み出す表現者でもある。生来の「美」とある種人工的な「美」。一見対立しそうな二つが反発せずに溶け合っているのは、そこにある意図が共通しているからだ。つまり、その人が持つ魅力を最大限に引き出して、本人も周囲の人間も明るくさせる。未唯はそれを穂高の「稀有な才能」だと評する。美しさという魔法にかけられて生まれ落ちたような玲と同じように、穂高もまた美しさを操る魔法使いだ。

「女の子がね、メイクされて、心の中から華やいでどんどん自信を持っていくのが、間近で見てると楽しいし、嬉しいんだよね。筆のひと振りでちょっとの違いが生まれて、だけどそれが何なのかは女の子本人にはよくわからなくて、でもさっきまでとは確実に違う自分になってるっていう戸惑いと、その魔法を確かに感じて目をきらきらさせてる女の子と、それを与えた自分が魔法使いみたいに感じられるのがいいの。(後略)」

ムーンプリズムパワー、メイクアップ!(孤高の人_Ⅰ)

 それだけに、美の権化たる玲に対しても容赦ない。スイーツの食べ過ぎでニキビ面をこしらえた玲に対して、こう諭す。

「(前略)まあ、真面目な話、少し考えてみようか。いろんなモデルがいることは、私いいなと思う。いわゆるモデル体型じゃなかったり、目立つ傷やシミがあったり、そういうありのままの体も自信持っていいんだよってメッセージを込めて、覚悟と誇りをもってモデルをやっている人もいる。そういうのって、格好いいし、勇気付けられるよね。ま、外国のほうがそれができる土壌があると思うけど」
(中略)
「でもさ、じゃあ、なんの意志も矜持も持たずに、ただ流されるままに作ったニキビをさらして、それでそのモデルはモデルって言えるんだろうか。それは格好いいことなのか。……それでもかろうじてモデルとして撮ってもらえたとして、もちろん雑誌側は、覚悟もコンセプトも持ってない、ただ意志力が弱いだけの自称モデルさんの顔をそのまま載せても格好よくは写らないから、掲載にあたってはフォトショッパーさんたちの手を煩わせて、紙の上だけでは薄っぺらの綺麗な見た目になって載るの。――どう、それって、格好いいことなのかな」

怪奇! いつの間にか口へ入り込むスイーツ(写ルンです)

 怠惰な生活による体の乱れを放置して、うわべだけ綺麗に見せようとする繕う。それはきっと美しくない。「美しさ」というのは、内側から溢れ出した意思が形作るような、人の心を揺さぶるような、そういう力強さのことなのだ。 

 一方で、「美しさ」はその力ゆえに毒、あるいは呪いのようにも働く。

 いい男、いい女、均整のとれた体つきをした人がいれば、目が向いてしまうのは誰だって自然なことだと思うし、惹きつけられるのはわかる。
 だがそれを、単に消費する側として一方的に品評するような目線を恥ずかしげもなく表現するのは、腹が立つ。

その男、奔放につき

 彼女のような美しい人間になら、誰でも好意や下心を持って有象無象のあらん限りの贈り物を送ってきただろうし、そのうえ彼女は自分で並々ならぬ努力を継続できる人だ。凡人からしてみれば、およそ手に入れられぬものなどないように思える。
 一方で、過剰な好意や執着、いわれもない敵意や偏見など、望んでもいない感情や事態を様々な人間から押し付けられてきたであろうことも想像に難くない。
 "美人"とは孤独で、大変な生き物だ。

ホタカ・セトによる『我々の恋路を困難にさせうる3つの問題とは何か』(『恋人たち_I』)

 そもそも、穂高が玲のマネージャーとなるきっかけも、その「毒」のせいだった。玲のマネージャーは悪名高い「セクハラ野郎」で、その過剰なスキンシップに玲は萎縮していた。新人であるがゆえに強く出られず思い詰めていた玲を、ひょいと外へ連れ出したのが穂高だった。魑魅魍魎のはびこる芸能界で、美しさのせいで玲が消費されてしまうような事態にはしまいと、穂高は新たなマネージャーとして彼女をサポートすることになる。

ケアする・ケアされる

 芸能界で「天下をとる」という目標を掲げた玲を、穂高はマネージャーとして献身的に支える。玲が何者かに尾けられていた時は家に連れ帰って暖かいシチューを食べさせる。玲が難しい役柄に悩んでいる時は、そこに没入しすぎず幅を持たせるような演技ができるようアドバイスして気持ちを軽くする。玲の両親の結婚記念日には、裏で根回しして実家まで送り届ける。穂高はマネージャーとして新人なのに「ケアする」ことが体に染み付いている。もちろん穂高も玲の気遣いにケアされているし、かつての「戦友」ヤマダァや、(いつもはちゃらんぽらんだけどやるときはやる)社長に背中を押されることもある。けれども、根本的に、穂高はケアする人なのだ。

 穂高のケアのもと、玲はあっと言う間に自立し始める。その象徴的な場面が、セクハラ注文を繰り返す「T氏」に玲が毅然と自分の言葉で返答する、ある撮影での一幕だ。

 モデル当人が納得していれば、どんな指示を出そうが問題なかろう、と水を向けられた玲は、やや固い表情で少し押し黙ったものの、瞑目したのち、落ち着いた様子で口を開く。

「……実際、先ほどから私は少し、不安と怖さを覚えていました。それでも、私さえ我慢すればいい、と思っていました。
 ですが、私一人が今我慢して、これも許されるんだ、どう扱ってもいいんだ、という感覚が作り手側に広がってしまったり、私たちはどう扱われても仕方がないんだって、この場にいる同じ女性たちへ感じさせてしまうのは、もっと怖いことかな、と思いました。
 そういう事態を作り出すのだとしたら、これは私だけの問題ではありません。……いえ、むしろ、私のいっときの恐れから、ただこの時間だけを耐えて過ごすなら、それは私の責任で、私がのちのちまで負う問題だと思います」

居心地の悪い部屋②(東風吹きて_Ⅲ)

 玲がこの「居心地の悪さ」を自分だけの問題で終わらせず、「女性たちの、これからの女性たちのために、みんなで作品を作ろうってきちんと提案」してくれたことに穂高は心打たれる。玲が穂高を守ろうとしてくれることにも感激する。

 自分の脚で前へ上へ進み始めた玲を穂高は必死にサポートするが、次第にバランスが取れなくなってくる。玲のケアを最優先するあまり、自分の生活がおざなりになっていく。

 洗濯機の蓋を閉めて、深いため息が漏れる。涙まで出そうだった。
 最近は本当に全く余裕がないほど忙しくて、ぎりぎりの状態で仕事を回している感覚がある。捌いても捌いても別の仕事が押し寄せてきて、なんとか水面に鼻先だけ出しているものの、思いがけない小波が寄せてきたら、このバランスは脆くも崩壊するだろう。
 自分一人だけの仕事であれば、少し無理をしたりどこかで帳尻を合わせたりすることも簡単だが、玲というもう一人の別の人間、しかもコンディションは常に最高であってほしい、だが無茶はさせたくない、と矛盾する条件を実現するには、やはり自分にはまだまだマネージャー業の経験が圧倒的に不足している。玲自身の努力や調整があってこそ、現状どうにかなっている状態だ。
 そんなぎりぎりの状況で私生活は荒れ果て、このざまだ。

猿1『瀬戸んち、生活やめてるってよ』(『恋する猿の惑星_I』)

 そもそも、この小説では玲の来歴は説明されているのに対して、穂高の過去が見えてこない。玲は千葉県で温かな家庭のもとすくすくと育ち、大学進学ののち、就活を目の前にして半ば逃げるように芸能界に足を踏み入れた。人に愛されてきた、ケアされてきた人特有の伸びやかさが魅力だが、独り立ちに二の足を踏んでいるところがある。穂高は、文化祭で他人にメイクを施す楽しさを覚えたことで専門学校に進学したと説明するが、地元や家族に関して何も語らない。もしかしたら家族との関係は良好かもしれないが、少なくとも自分の抱えている悩みや問題を打ち明けられる相手が(かつての恋人を除いて)いるようには見えない。

 結果的に、穂高は関係が明るみに出ることを恐れ、玲の将来を案じて別れを切り出す。玲に自らの心身を預けることを諦めて、マネージャーとして、年長者として玲を守るためケア労働に徹する決断を下す。

 ネット小説では、わりかし無垢に、ケアする人とケアされる人の関係が描かれることが多いと思う。男主人公を献身的に支えてくれるヒロイン像はポピュラーだし、逆に生活力皆無な女性アイドルを世話する家事男子もしばしば描かれる。しかし、この小説はそうした固定化された関係性の危うさをあぶりだす。そして、それは現実世界のカップルにとっても切実な問題だと思う。

行って帰ってくる物語

 「行って帰ってくる」というのは、ホメロスの叙事詩から『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(玲と穂高も自宅で鑑賞していた)といったスペクタクル超大作に至るまで、数々の物語に使われてきた構造だ。この小説もその構造を含んでいる。

 ウラジミール・プロップというソ連の昔話研究者によれば、物語の構造は31の機能で説明できるという。そのうち、「行って帰ってくる」に関わる機能として次のようなものがる。

11 主人公が家を後にする
12 主人公が(贈与者によって)試され、訊ねられ・攻撃されたりする。そのことによって、主人公が呪具なり助手なりを手に入れる下準備がなされる。
13 主人公が贈与者となるはずの者の働きかけに反応する。
14 呪具(あるいは助手)が主人公の手に入る。
20 主人公が帰路につく。

 この小説の中で、この構造はまさしく撮影でスペインを訪れる場面に該当する。スペインに旅立ち(11)、現地の写真家アンドレに、玲の横に立つ人間としての資質を問われた穂高は(12)、見事にヘアメイクアーティストとしての矜持を見せつけ(13)、アンドレに写真をプレゼントされ(14)、日本に帰る(15)。こうした定番の構造を取り入れて作品に緩急を生み出す技量もさることながら、「呪具」たる写真を物語の最後で効かせるのがさらにこの作品の魅力を引き上げている(ちなみに、長編2作目『微熱の糸が灼きついてほどけないので』では、プロップの17番目の機能「標付け」が働いている)。

ロマンチックに、コンフルエントに

 この小説はファンタジーではなく、現実の日本社会に即したフィクションだ。だから同性カップルであるという事実が重くのしかかる。正確にいえば、「同性カップルに対して世間が向ける嫌悪や好奇の目の存在ゆえに、その関係性を公言できないということ」が二人を引き裂こうとする。

「本当は、女同士で何が悪いって堂々と、他人がどう言おうと公然と仲良くしたいし、それが正しい、っていうか、それを正しい・正しくないとか考えること自体ナンセンスだと思う。でも、それを当たり前にそういう風に振舞った場合に、芸能界での君の居場所を守れるほど、私にはまだ力がない。だから、お付き合いできたとしても、それをオープンにはできない。
……それは、わかってもらえる?」

ホタカ・セトによる『我々の恋路を困難にさせうる3つの問題とは何か』(『恋人たち_I』)

 玲が日の当たる道を歩いていき、いつかは異性の伴侶を見つけることを、穂高は心のどこかで願ってしまっている。そして、遠くない将来、玲のキャリアにとって同性のパートナーである自分の存在が重荷になりかねないと懸念している。それが積み重なって別れを切り出す。しかし、ここで生きてくるのが、玲の部屋に飾られていた「写真」である。

 近付いて手に取る。それは、スペインへ行ったときに写真家のアンドレが撮ってくれた私たち二人の写真だった。
 降り注ぐ黄金の太陽に煌めく海の前で、屈託なく笑い合う私たち。

 この瞬間、何も恐れるものはなくて、ただ、風に吹かれて、腕を取り合い、私たちは笑っていた。

 ゆっくりと写真立ての後ろを見ると、やはりそこには、"君たちの未来の幸せを願っています"とアンドレによって書かれた文字があった。

 その文字が目に飛び込んだ瞬間、抑えきれずに嗚咽が漏れる。

伽藍の部屋と太陽と海

 穂高はマネージャーを辞め、玲の隣に並び立つに値する一流のヘアメイクアーティストを目指す決意をする。

「(前略)世界に名を轟かせる、すっごいヘアメイクアップアーティストになるんで。君も、君がやりたい限り、プロの道を突き進んでほしい」

新玉の床

 穂高は年長者の、ケア者としての立場から玲の行末を案じて別れる決断を下していたが、ようやく対等な二人で未来を歩む道を選ぶ。「依存しあうカップル」でもなく、「自立/自律する個人」が離れ離れになるでもなく、前を向く二人がケアしケアされながら歩んでゆく、そこにこの小説が持つ力強さがある。

揺らぎ

 玲と穂高、二人の描かれ方に「揺らぎ」があるのもこの小説の魅力の一つだ。玲は圧倒的な美しさを誇示するような身のこなしをするかと思えば、犬のように穂高に甘える「百瀬彗」にもなる。穂高は、玲の顔を、描くべきキャンバスとして真剣に見つめるかと思えば、「百瀬彗」の身も心も絆す年上の恋人にもなる。人は一貫性がなくて、いつでも揺らぎがある。

 これが私の考える"そういう"人、と型にはめて表現した人間は、結局フィクションで、演じ手が想像できただけのレンジしか持ち得ないと思うのね。のっぺらの、平面的な。
 だけど――私には想像が及んでいない、迷いがある、という自覚のあるうえで、それを受け止めた状態ではどうだろう。
 本物の人間は迷いながら生きてるよね。君も私も。私たちは、自分で自分をコントロールできない。矛盾なくなんかいられない。一貫性がない。いつだって揺らぎがある

楽屋談義で福沸し

 二人の関係性も、モデルとヘアメイクアーティスト、芸能人とその仲良しマネージャー、人目を避けて逢瀬を重ねる恋人、共に未来を見据えるパートナー、などと様々なグラデーションで描かれる。その揺らぎの中で、二人が完全にお互いを理解しきれないながらもお互いを思い合う様子が象徴的に表されるのが、「鏡越し」という言葉だ。

 撮影前のメイクルームで、穂高は絶えず玲と鏡を見比べながらメイクを施すだろう。何のフィルターも通さない素の眼差しで見る玲と、完璧なライトアップと3面の鏡が写し出す玲。その絶え間ない往復の中で玲の美しさを最大限に引き出していき、最後にはやはり鏡越しの玲を確認して、彼女を撮影へと送りだすのだ。

 ここに、ある種の価値観の転倒がある。ありのままの素顔を肉眼で見つめることでこそ、その人の本来の価値や魅力がわかるという、「アイドルとファン」が出会う物語の王道的イデオロギーが一旦留保される。むしろ、肉感的な魅力と、鏡という人工物を挟んで伝わる輝きという揺らぎの中で、穂高は玲の真後ろに立って同じ鏡を見つめる。一番近い場所にいながら、いま・ここにある人間としての「百瀬彗」本人ではなく、プロのモデルとして美しさと力強さを数多くの他人に届ける「玲」の鏡像に向き合い、「綺麗です」と声をかける。それは、世の人々を魅了し圧倒する芸能人「玲」への賛辞でもあるし、恋人である「百瀬彗」の耳に届ける恋歌でもある。

 最も近い場所にいる恋人ですら、自分との距離は絶えず揺らいでいて、捉えようとしてもするりと抜け出してしまうようなところがある。それを嘆いて押し込めようとしたりせず、愛情と敬意をもって受け止める。『鏡越しの恋歌』というタイトルは、そういう揺らぎの中にあるリアリティや魅力を物語っている、と思う。

現実を生きる

 この小説の舞台は現実の日本社会だから、玲と穂高の直面する困難は現実と直結する。芸能界にのさばる有害な男性たち、無邪気な同性愛嫌悪やタブー視される同性パートナーの存在。そして何より、日本の法律では同性カップルが結婚できないという事実。しんどい現実を前にしても、二人はそれを打ち破り、世界を変えていく決意をする。

 二人が再び恋人同士になり、穂高がマネージャーを辞めた後、玲は「ひな壇状になった会場で数人ずつがチームとなって、クイズやゲームの成績を競う」バラエティ番組に「これから始まるテレビドラマの主要キャストの一人として参加」する。そこで、司会者から「同性同士のキス」について話を振られた玲は次のように言う。

「好きになった人がたまたま同性だったってこと、あると思います」

(中略)

「そんなに珍しいことでしょうか。――だって、一生のあいだ、たまたまずっと異性ばかり好きになる人もいれば、たまたまずっと同性だけを好きになる人も、そのときどきによって定まらない人もいると思うんです。全然たまたまじゃないよ、いつも同じだよって、自分が好意を寄せる人の属性に何の疑問を持たない人も、私は絶対にこうだから、ってそれに誇りを持っている人も、確証が持てない人も、そんなのどうだっていいよって人も……いろんなケースがあるじゃないですか」

 ひとつ間を置き、微笑んで述べる。

「そういう振れ幅のある領域について、他人がとやかく言わない世の中であれば、もっと皆生きやすいんだろうな……なんて考えてます」

今昔彼女語り④ もとかの編_Ⅱ

 当初は目標も野望もなく、モラトリアムの延長として芸能界に入った玲は、今や自分の言葉で世界を変えようとする芯の強い人になり、穂高の目も未来を見据え始める。

「(前略)それに、あの子にも、隠れて生きてほしいとは思わない。私たちのことを世間からずっと隠し通せるとも思わない。……かといって、世間に知られたときに、ただのスキャンダルにされたくない。マネージャーとの恋、しかも同性なんてさ、格好のゴシップネタじゃん。面白おかしく、玲に詮索の目が集中して、彼女の人生がめちゃめちゃになるのは絶対にやだ。だから、私個人がすっげーやつになっておく必要がある。あの玲の相手って一体どんな人間だよって調べてみたら、なんだ、ちゃんとすげーやつじゃんって思わせなきゃいけない。……おいお前聞いてんのか」

その男、誠実につき

 ヤマダァもまた自らの作品で世の中を変えていく手助けをする。

「(前略)ときに瀬戸村の穂高の子よ、人間界で先日放送していた『春のざわざわオールスター大賞決定戦』は見たか?」
「え、見てない」
「あ、そっすか」
「なになに」
「うん、俺、それに出てた玲ちゃんからインスピレーションもらって一気呵成に書いちゃったホンがあるんすよね」
「わお。どんなの?」

 彼の数多ある顔のうちのひとつは、優れた脚本家である。彼の作品なら、いいものに違いない。

「主軸としては女性ふたりの恋愛のお話なんすけど。今まで恋愛において"普通"とされてきた関係とは違う形がいくつあったって当たり前でしょ、ってわかるような。――もし、同性の人たちが一緒にいたいって思うのに、それを妨げる空気が世の中にあって、それを瀬戸ちゃんが心配に思うなら……その空気を俺が、俺の作品で変えてやりますよ」

 獲物を見つけた獣のごとく、獰猛で苛烈な光すら目に宿らせて、彼は不敵に唇を歪めた。

「俺の脚本は面白いですよ。それで、玲ちゃんは才能がある俳優さんです。俺の書いたホンを彼女が演やるなら、すげーいいドラマになるでしょう。必ずヒットする。色んな人に届く。……そうすれば、同性間の恋愛は普通じゃない、なんて思ってるような人たちの偏見とかも少しは動かせるんじゃないかなって思います。くだらねー世間の常識なんて、俺たちがアップデートしてみせます」

 そして張り詰めた空気を霧散させ、

「そしたら、瀬戸ちゃんと玲ちゃんの二人が、特別気を張らずとも仲良くやれる未来も手繰り寄せられるんじゃないかと、俺は目論むんすけど」

その男、誠実につき

 2024年の日本において、同性愛は透明化された存在として扱われるか、エンタメとして消費されるかのどちらかだ。婚姻はおろかカップルとして公言することすら憚られる空気がある。その現状を変えられるか否かは私たちにかかっている。私たちができるのは、同性愛を安易にエンタメとして消費しないこと、当事者の声を聞くこと、支えること。玲と穂高の二人がスペインで感じた、二人を自然と受け入れてくれる感覚を、日本でも感じることができる日々を実現させるために。いつか、「ひな壇状になった会場で数人ずつがチームとなって、クイズやゲームの成績を競う」バラエティ番組の司会者が、MCを務めるべつの番組で、どぎまぎも焦りもせずに、スペインの空の下で笑い合う二人を見てくれるといいな、と思う。

さいごに

 しょうもない自分語りです。私は昔から人よりも海外に対する、正確に言えば外国語に対する憧れを強く持っていました。幸運にも日本で何不自由ない暮らしをさせてもらっているにもかかわらず、流暢に英語を操る帰国子女に羨望の眼差しを向けつづけ、フランス語の抱える膨大な文化的蓄積におののき、韓国のミュージシャンの伝える言葉の機微を感じ取れないことにフラストレーションを抱えていました。ここ数年は膨大な時間を英語・フランス語の学習に捧げることとなり、その間何度も「なぜ自分の母語は日本語なんだ。英語を成長の過程で身につけていれば今こんな苦労はしなくて済んだのに」という思いに何度もとらわれることとなりました。

 しかしながら、私がもし日本語文化の中で生まれ育たなければ、『鏡越しの恋歌』に出会うこともありませんでした。その一点の理由だけでも、私が日本語を母語として生まれ育った意味があったと思っています。

 東海林春山さん、あなたはこのnoteを読んでいないでしょう。だからこれは私の独り言です。最高の小説に出会わせてくれてありがとうございます。「戻ってきてください」とは言いません。けれど、あなたは書く人です。あなたは言葉の魔法を持って生まれた人だと、私は思います。

参考文献

  • 小川公代,2021,『ケアの倫理とエンパワメント』講談社.

  • 亀井秀雄・蓼沼正美,2015,『超入門!現代文学理論講座』筑摩書房.

  • 北村紗衣,2015,「ケアと癒やしの壮絶ノンストップアクション〜『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(ネタバレあり)」,Commentarius Saevus,2015年6月25日,(2024年6月6日取得,https://saebou.hatenablog.com/entry/20150625/p1).

  • 千葉雅也,2022,『現代思想入門』講談社.

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