20世紀の歴史と文学(1944年)

第二次世界大戦が終わる1年前となった1944年、日本は完全に劣勢に立たされていた。

1941年12月に、ハワイの真珠湾攻撃と同時に行われたマレー半島(=今のマレーシア)上陸作戦では、日本を甘く見ていたイギリス軍が降伏し、勢いに乗った日本軍は、その先のシンガポールも翌年に陥落させた。

一方で、アメリカは当時フィリピンを間接統治していたのだが、そこで自国軍とフィリピン軍の指揮を執っていたのは、あのダグラス・マッカーサーであった。

だが、1942年の年明け早々にマニラが陥落し、その後も日本軍の侵攻が続いたため、マッカーサーはいったん本国に戻った。

フィリピンでは、地下で抗日のゲリラ隊が多く活動しており、マッカーサーが本国に戻っても、日本軍が有利に戦える状況ではなかった。

だからこそ、日本は、とりわけ空軍において「神風特攻隊」を編成し、1944年の秋から終戦までの10ヶ月間、捨て身の戦闘を繰り返した。

アメリカはアメリカで、日本に占領されたマニラをはじめ、これ以上日本の侵攻を拡大させないためにも、フィリピン奪還のために、オーストラリアと連合国軍を編成し、日本の海軍と全面対決した。

フィリピン周辺のレイテ沖海戦は、太平洋戦争の中でも激しい戦闘が繰り広げられ、日本の海軍が乗った戦艦武蔵や戦艦大和が出動したことで有名である。

このレイテ沖海戦のときに、戦艦武蔵はアメリカ軍の攻撃によって、沈没してしまった。戦艦大和は、かろうじて免れたのだが、翌1945年に沈没することになる。

アメリカにとってフィリピンは、日本のシーレーンを断つための重要な拠点だったし、日本もそれが分かっていたからこそ、なんとしても死守したかったのだが、すでに戦闘機や戦艦の数では圧倒的に不利であった。

そうした中で、日本の本土も空襲によって狙われるようになった。東京の上野動物園では、混乱を防止するために動物の殺処分を行い始めた。

有名な爆撃機B−29が、初めて日本に空襲のために飛来したのが、1944年6月15日だった。

最初に狙われたのは、北九州の八幡製鉄所があるエリアである。

東京は、同じ年の11月24日に初めてB−29による空襲を受けた。しかし、これはまだ序の口であって、その日から終戦まで、東京は計100回以上も空襲を受けることになる。

このときすでに東條英機内閣は、政権内部の反発もあって、7月に総辞職していた。

東條英機と同じ陸軍出身の小磯国昭(こいそ・くにあき)が内閣総理大臣に就任したが、状況は日々悪化するばかりで、とうとう翌年3月に、沖縄にアメリカ軍が上陸することになった。

続きは明日である。







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