現代版・徒然草【38】(第109段・木登り)

今日は、人がミスをするタイミングについて、なかなかおもしろい指摘をしている段を紹介しよう。

現代の私たちにも当てはまる教訓である。

では、原文を読んでみよう。

①高名(こうみょう)の木登りといひし男、人を掟(おきて)て、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るゝ時に、軒長(のきたけ)ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ」と言ふ。
②あやしき下臈(げろう)なれども、聖人の戒めにかなへり。
③鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。

以上である。

①の文から解説しよう。高名の木登りというのは、木登りの名人(もしくは得意な人)のことである。その男が、人に指導する機会があって、高い木に登らせて、梢を切らせていた。

その指導のときに、大変危なっかしく見えるときには何も言わなくて、(指導を受けている人が)木から降りるときに、屋根の高さくらいになって、「失敗するな。気をつけて降りよ。」と言った。

それを聞いた人が、屋根くらいの高さ(=昔は平屋が一般的だったので屋根は低かった)になったら、飛び降りようと思って飛び降りる。なぜ、こんな高さまで来て、そう言うのか?と質問したのである。

返ってきた答えは、「目がくらくらして、(乗っている)枝の状態も危ないときは、自分で恐怖心を持っているので、あえて言わないのだ。失敗は、安心できる状態になったときに、やってしまうものだ。」とのことであった。

②では、(木登りの名人の男は)身分の低い者だが、言っていることは聖人の教えに適っていると、(兼好法師が)指摘している。

最後の③で、「例えるならば、(当時の一般的な遊びだった)蹴鞠(けまり)も、もう大丈夫と思ったときに、うまく行かず(地面に)落としてしまうものでしょ。」と結んでいるわけである。

なるほど、深いなあ~と感心した段である。


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