20世紀の歴史と文学(1937年)

今日は、これまでの動きを改めて振り返りながら、1937年の出来事に触れよう。

日本の戦争責任を考えるとき、シビリアン・コントロール(=文民統制)が効かなかったことも一つの要因ではあるが、海軍出身の退役大将が総理大臣になっても、軍部の暴走は止められていなかったことが分かっただろう。

斎藤実も岡田啓介も海軍出身の総理大臣だった。

結果的に、世間を震撼させた二・二六事件は、昭和天皇の鶴の一声で鎮圧されたのである。

したがって、日本国内に限れば、天皇の影響力で、まさしく大日本帝国憲法第11条の「天皇は陸海軍を統帥す」という条文どおりの統制を図ることができたはずである。

また、日本が国際連盟を脱退するときも、天皇の詔書が発布されている。

天皇の指示があれば、なんとかできたのではないかという見方もできるが、実は、国際連盟の脱退は、日本政府がそうするしか方法がなかったというのが実状であった。

ここで押さえておきたいのは、満州=中国全体ではないということである。

日本は、今の中国の東北3省(=遼寧省、吉林省、黒竜江省)にあたるエリアを占領していたが、このエリアが満州であり、このエリア外に出れば、そこは満州ではない中国になる。

満州の西部には、当時は「熱河(ねっか)省」というエリアがあり、その熱河省を西へ横断して河北省に入ると、今の中国の首都である北京が近くにある。

北京から南下していくと、南京や上海があるのは多くの人が知っていると思うが、そこはもう満州ではない。

満州には、昨日の記事でも東條英機が司令官として赴任していたことに触れたが、1932年9月に締結されていた日満議定書に則って、この満州に駐屯していた日本軍は「関東軍」と呼ばれていた。

日本の首都圏を含む「関東地方」の意味ではなく、中国の東北地方すなわち満州に駐屯していたことからそう呼ばれていた。

この関東軍が、さらに領土拡大を目論んで、日本政府や昭和天皇の影響力が国内のようにすぐには及ばなかったこともあり、1932年1月に上海事変を起こしている。

この上海事変とは、日本人の僧侶が中国人に襲撃された報復だとして関東軍が上海に攻め入った事件なのだが、実は、関東軍による中国人買収工作であり、何も知らない中国軍は、この突然の攻撃によって反日感情を高めることになった。

関東軍の目的は、前年の満州事変から国際社会の目を逸らすことにあったのだが、その満州事変でさえ、自作自演だったのである。

中国は、この上海事変に反発して、日本を国際連盟規約違反だと訴える動きを見せたのだが、これに驚いた日本政府は、規約違反による経済制裁を受けるとマズイということになり、やむなく連盟脱退を、閣議決定の上で最後の切り札にしていた。

つまり、政府も昭和天皇も対応が後手後手に回ってしまっていたのだ。

1937年7月7日、関東軍は、満州の外、つまり中国の北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)において、中国軍と軍事衝突を起こした。

この中国軍が、蔣介石率いる中国国民党だった。

かくして、日本と中国は、「日中戦争」という名の全面戦争に突入することになったのである。

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