20世紀の歴史と文学(1932年)

昨日の記事で触れたとおり、日本はこの年の2月に、満州全土の占領をほぼ完了した。

つまり、柳条湖事件を起こしてから、次々と周辺を制圧していったわけだが、この占領行為にアメリカが口出しをしていた。

当時の国務長官だったスティムソンの名を取って、「スティムソン・ドクトリン」が1932年1月にアメリカから、日本に対して通告された。

このときから日米関係はぎくしゃくするようになったのだが、このスティムソンが、実は第二次世界大戦が終わるまでの日米関係のキーマンの一人だった。

「スティムソン・ドクトリン」とは何かというと、要は日本による満州の占領を承認しないという拒否姿勢を示すものであった。

ところが、厳しい姿勢を示したのはアメリカくらいで、イギリスなど他国はそこまで日本の満州占領を深刻には捉えていなかった。

これはなぜなのかというと、中国国内の共産党勢力を抑える意味でも、日本はロシアと中国との間の緩衝材になりうると考えていたからである。

イマイチ理解できない人のために、もう少しかみくだいて説明しよう。

1917年にロシア革命が起こり、ロシア帝国が崩壊し、ソビエト連邦が成立するきっかけとなったのはご存じだろう。

この革命によって共産主義勢力が台頭したわけであるが、そもそも、ヨーロッパの国々は帝国主義政策をとっていて、中国大陸の一部や東南アジアなどが植民地となり、そこに住んでいた人たちが奴隷として強制的に働かされ、彼らの労働によって生産されたモノが貿易によって本国に輸出されて潤う。そして、現地人には、労働の対価として報酬は支払われないのである。

つまり、帝国主義に対抗する形で共産主義は勢力を広げるようになり、中国や日本にも支部が作られたのである。

中国では、日本がまさに帝国主義政策と同様の占領行為をしていたわけであり、これに反発する人が共産党に取り込まれていくようになる。

しかし、中国には、昨日の記事でも登場した張学良のほか、知る人ぞ知る蔣介石が、国民党を率いていた。

国民党は、中国国内で共産党勢力と戦っていたのである。これは「国共内戦」と呼ばれた。

こうした共産党勢力を抑えるためにも、満州にいる日本軍の存在は、国民党にとっても必要だったのである。

しかし、すでに満州にいる日本軍と、日本政府の足並みは乱れていた。

1932年5月15日、犬養毅総理大臣が首相官邸で海軍青年将校たちに襲撃され、凶弾に倒れた。

いわゆる五・一五事件である。

総理大臣が、なぜ殺害されることになったのか。続きは明日である。


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