20世紀の歴史と文学(1939年)

1939年が、第二次世界大戦勃発の年であることをハッキリと言える人は、どれだけいるだろうか。

そして、日中戦争や太平洋戦争と混同して、第二次世界大戦は日本が起こしたと思い込んでいる人もいるかもしれない。

正しい歴史認識を持つためには、それぞれの戦争の経緯を理解して、当事者(または当事国)はだれ(どこ)なのか整理する必要がある。

第二次世界大戦は、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことによって始まった。つまり、ナチス総統のヒトラーが、まず動いたのである。

ナチスといえば、ユダヤ人迫害がクローズアップされがちだが、この第二次世界大戦の陰では、共産党の存在がドイツにもあったのである。

実は、日本とドイツは、1936年に「防共協定」を締結している。「防共」とは、文字どおり共産化の波を防ぐことを意味し、1917年にロシア革命が起こる前はロシア帝国と国境を接していたドイツ帝国も、共産主義は脅威だったのである。

1937年には、イタリアも防共協定に加わり、1939年3月までに、日本が建国した満洲国やハンガリー、スペインも加わったので、最終的には六ヶ国間の協定となった。

このときはまだ、第二次世界大戦は起きていなかった。

戦いの火蓋が切られたのは、半年後の9月1日であった。

その1週間前に、ドイツはソ連と「独ソ不可侵条約」を結んだ。これは、ドイツにとって、ソ連の共産主義の脅威から自国を守る「防波堤」として、ポーランドを緩衝地帯にすることができた点で大きな意義があった。

そして、ヒトラーとスターリンは、ポーランドを東西分割して占領することまで事前に議定書で取り決めていたのである。

この条約締結は、日本も含めて反共を掲げていた国々には衝撃的な出来事だった。

日本では、第一次近衛内閣がこの年の1月に平沼騏一郎内閣に代わり、近衛内閣の方針がそのまま引き継がれていたのだが、防共協定を最初に結んでいたドイツが、まさかの不可侵条約をソ連とお互いに結ぶとは思っておらず、平沼騏一郎内閣は「欧州天地は複雑怪奇」という言葉を残して総辞職した。

しかし、ドイツは、第一次世界大戦で敗戦国になったこともあり、ヨーロッパにおける立場は、そこまで強くなかったはずではないかと思う人もいるだろう。

ヒトラーの暴走を許してしまったのは、イギリスとフランスの宥和的な態度も影響したからである。

なぜ宥和的だったのかというと、ドイツがポーランドを共産主義の防波堤代わりにしたように、イギリスとフランスも、ドイツがソ連に対抗しうる軍事力があれば、ドイツが共産主義の防波堤になりうると期待していたところがあったのである。

ドイツによるポーランド侵攻が起こった2日後、イギリスとフランスはそろってドイツに宣戦布告をした。

さて、アジアでは、ドイツとソ連の間にポーランドが緩衝地帯として存在していたのと同じように、日本が建国した満州国とソ連(=ソビエト連邦)の間にモンゴル人民共和国があった。

モンゴルは、1937年に大規模なソ連軍の進駐を許しており、当時は社会主義国だった。

そこへ日本が日中戦争を起こして、満州国の外へ戦線拡大したわけだから、モンゴル国境付近のノモンハンで、ソ連軍と衝突したのである。

これが、第二次世界大戦が始まる前の5月に起きた「ノモンハン事件」である。

ソ連にとって、西側はドイツ、東側は日本の2方面での対応を迫られている中での戦争突入だったのである。





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