20世紀の歴史と文学(1915年)
今週は、政治と戦争の話ばかりで、文学的な話は、夏目漱石の『こころ』ぐらいじゃないかと文句をつける人もいるかもしれない。
しかし、歴史を語るとき、世界にさまざまな国家があり、その時代の統治者の野望によって政治は動き、必然的に対立が生じて戦争に発展し、当該国の国内外の人々の生活や考え方に影響を与える。
そうした人々の中にいる文学者は、時代を反映した作品を生み出し、それを手にとって読む人たちの心を動かし、庶民レベルでの革命の動きがときには起こりうる。
日露戦争の影響を受けた与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」しかり、明治天皇崩御の影響を受けた夏目漱石の『こころ』しかりである。
では、第一次世界大戦の影響を受けた文学者はいただろうか。
第一次世界大戦では、ドイツが結果的に敗戦国になったのだが、そのドイツの戦争に異議を唱えた文学者がいた。
日本人ではなく、ドイツ人である。
その名は、ヘルマン・ヘッセである。第二次世界大戦が終わった翌年、彼の平和主義的な主張が評価されて、ノーベル文学賞を受賞した。
読書好きな人なら、1906年に発表された『車輪の下』を読んだこともあるだろう。
第一次世界大戦では、ヘッセの年齢は30代後半だったが、徴兵検査で不合格となり従軍しなかった。
その代わり、ドイツ人捕虜の救援機関で働いていた。その仕事の傍らで、ヘッセは多くの詩を書いていたのだが、そのほとんどは戦場で死ぬ兵士への思いや平和への願いが込められたものだった。
彼のそうした執筆活動を知った多くの戦争推進派からは、「裏切者」と非難された。ヘッセは、精神を病むようになり、ある精神科医の弟子たちの助けを借りながら、スイスで療養することになった。
ある精神科医とは、ヘッセより2つ年上だったユングである。
私たちが一度は聞いたことがある「ユング心理学」のユングである。日本では、1965年にスイスのユング研究所で資格を取得した河合隼雄がユング心理学を広めた。河合隼雄は、このとき37才であり、2007年に79才で亡くなるまで、箱庭療法などの心理療法の普及に尽力した。
ヘッセは、ユングの弟子たちのもとで心理療法を受け、自身の精神が回復する中で、その精神世界などを兵士の遺稿という形で『デミアン』という小説を執筆した。
さて、日本は、1915年に何をしていたかというと、中国に対して「対華21ヶ条」の要求をしていた。「対華」というのは、「対中華民国」の意味である。
21ヶ条の要求の中には、中国山東省(さんとうしょう)におけるドイツ権益(=鉄道敷設権や鉱山採掘権)を日本によこせという内容も含まれていた。
第一次世界大戦はまだ継続しており、ドイツの敗戦が確定してはいなかったが、ドイツ軍がヨーロッパで戦っている最中に、準備を進めていたのである。
このときの内閣は、第2次大隈内閣であり、大隈重信が、1898年以来、2回目の総理大臣を務めていた。
しかし、翌年の1月、この大隈重信に対して、暗殺未遂事件が起こった。
続きは、来週である。
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