歴史をたどる-小国の宿命(28)

昨日は、平将門の話をしたが、今日は藤原純友の話をしていこう。

藤原純友は、伊予掾(いよのじょう)として朝廷から派遣されていた地方の役人であった。

ここで、「掾」(じょう)の意味について解説しよう。

今の時代では、自治体のトップは知事であるが、平安時代の頃は、その国(ここでは、今の愛媛県にあたる「伊予国」)のトップは、守(かみ)と呼ばれた。

江戸時代の大岡忠相(おおおか・ただすけ)が「越前守」と呼ばれることは時代劇好きな人は知っていると思うが、「守」は、その国の長官を表す。

そして、次席のことを「介」(すけ)と呼び、三席を「掾」、四席を「目」(さかん)としていた。

つまり、藤原純友は、伊予国の国司ではナンバースリーだったわけである。

さらには、それぞれの国は、大国・上国・中国・下国と格付けされており、伊予国は、上国扱いだったので、役職としては並の上であった。

平安時代は、上流貴族が、いわゆる宮中に仕える(ほとんど天皇の側近といってよい)立場にあり、中・下級貴族は、地方に赴任していた。

そして、先に述べたとおり、どの国に派遣されて、役職は四等官(守・介・掾・目)のどれかを知ることで、貴族同士でマウンティングがされていたわけである。

さて、この官職も、ほんの一握りの貴族しかなれないことは、今の時代の大臣や知事と同様である。

国や自治体の組織を知るには、平安時代にさかのぼってみると、官位の仕組みがよく分かる。

明日は、藤原純友の上司や父親について触れるので、引き続きお楽しみいただければ幸いである。




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