【続編】歴史をたどるー小国の宿命(27)

秀吉が、織田信長の訃報を知ったのは、信長が自害した日の翌日の夜であった。

200キロ以上も離れているところへ、ほぼ1日半で情報が伝わったのは、なぜなのか?

それは、明智光秀が毛利輝元のもとへ送った密使が、秀吉の陣営で捕まったからである。

ほぼ休みなしで走り続けたなら、1時間に6キロのペースで、その密使は移動したことになるが、36時間も寝ず止まらずで移動するのは無理がある。実際は、もっと足が速かったのだろう。

それにしても、秀吉はラッキーだった。秀吉の陣営から離れたルートを駆け抜けられたら、先に毛利輝元に信長の訃報を知られていたかもしれないのだ。

しかし、その後の対応は、時間との勝負になった。毛利輝元に知られなくとも、近畿地方より東の武将たちには、知られている可能性がある。

ただ、もうひとつの事実が、秀吉を救うことになった。

密使から問いただしたのかどうかは不明であるが、信長の自害を見届けた武士たちが、信長の遺体を探しても見つからなかったのである。

秀吉は、時間稼ぎをするために、信長が実は無事に逃げおおせたということを書状にして、摂津茨木城主の中川清秀に送っている。

摂津茨木は、今で言えば、大阪府に位置する。しかも、秀吉よりも事件現場に近い人物に、秀吉は虚偽の情報を送っている。

なぜ秀吉が、そんな大胆な情報操作ができたのだろうか。

それだけ秀吉への信頼が高かったのかもしれないし、何よりも信長の首が発見されていなかったことが大きいだろう。

鎌倉時代から続いているしきたりとして、武士の時代は、戦で勝った人間は、負けた側の武将の首を斬って、持ち帰っていた。それを戦利品として、公(おおやけ)に晒していたのである。

だから、信長の首が発見できていない状況では、明智光秀がいくら主張したところで、現場を見ていない人間は信用できないわけである。

光秀も、必死になって信長の遺体を探したのだが、最後は信長のほうが一枚上手だったのだろうか。

死後に自分の首が晒されることまでを見越して、それを未然に防ぐために、事後処理を誰かに依頼したのかもしれない。

本能寺の変は謎も多く、黒幕説として、家康や秀吉の名前も挙がっている。

いくら書状が残っているとはいえ、それが意図的に作成されたものだとしたら、私たち現代人にとっても、真相は闇の中なのである。


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