【続編】歴史をたどるー小国の宿命(19)

川中島は、長野市を流れる犀川と千曲川の合流地点付近の三角地帯、いわゆる扇状地にあたる地名である。

今では長野市小島田町にある川中島古戦場史跡公園が、観光スポットとして紹介されている。

実際の戦地はこの公園エリアではなく、そこから西へ数キロ移動したところにある。

また、戦いは信濃国内の各地で行われたが、特に第四次合戦のときに、武田軍の本陣があったのが川中島だったことに由来する。

1552年に始まった川中島の戦いは、中断をはさみながら、約12年にわたって、5度の合戦が繰り広げられた。

また、このときの室町幕府の将軍は、第12代将軍の足利義晴が逝去しており、その子どもの義輝(よしてる)が第13代将軍となっていた。厳密に言えば、義輝はもともと「義藤」(よしふじ)という名であったが、18才のときに改名したのである。

京都から遠く離れた長野での戦いとはいえ、当時は京都も含めて、至るところで覇権争いが起きており、義輝自身も身の危険を感じて一時的に避難もしている。

そして、織田信長や上杉謙信の噂も聞いており、かねてより彼らの上洛を希望していた。

これまで歴代将軍が守護大名の争いに巻き込まれていたことを考えれば、反対勢力から身を守るために、力のある者と友好関係を維持するのは自然なことであった。

実際、織田信長は1559年の2月に上洛し、上杉謙信も5月に義輝に謁見している。ちなみに、義輝は、信長より2つ年下、謙信より6つ年下であった。

また、川中島の戦いを終わらせるための調停役も義輝は果たし、その5年後に、長く続いた戦いは終わったのである。

川中島の戦いの5度の合戦の詳細は省略するが、結果的には、信玄も謙信も痛み分けに終わった。義輝の仲介も大きかった。

だが、そんな功績を一気に吹き飛ばすほど、翌年(1565年)に義輝は非業の死を遂げた。まだ29才の若さだった。

織田信長の謁見も受けた将軍に、いったい何があったのか。

続きは、明日である。








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