20世紀の歴史と文学(1941年)
1940年にイギリスの首相に就任したチャーチルは、海軍大臣からの異動だった。
同じく、1941年10月に、第3次近衛内閣からバトンタッチを受けて首相に就任した東條英機も、就任前は陸軍大臣だった。
ところが、東條英機は、陸軍大臣をそのまま兼任した。そして、日本が敗戦する1年前の1944年7月まで、約3年間も戦時内閣のトップとして指揮を執ったのである。
チャーチルは、日本が敗戦したときもまだ首相だった。
東條英機は、1937年の日中戦争のときは、まだ中国大陸にいて、関東軍の指揮を執っていたが、1938年に同じく関東軍の幹部だった板垣征四郎とともに日本に戻り、第1次近衛内閣に入閣した。
このとき、板垣征四郎は陸軍大臣、東條英機は陸軍次官だった。
第2次近衛内閣から東條英機は板垣征四郎に代わって陸軍大臣に就任し、板垣征四郎は、朝鮮軍司令官になった。
この2人は同じ岩手県出身であり、同い年であり、A級戦犯として処刑されたのも同じ1948年だった。1941年当時は、56才だった。
ドイツではヒトラー、イタリアではムッソリーニ、ソ連ではスターリン、中国では蔣介石が実権を握っていたことは、これまでの経緯からお分かりだろう。
すでに触れたとおり、フランスは、ヒトラーによって占領されている。
では、アメリカの大統領はというと、1933年から、日本が敗戦する4ヶ月前の1945年4月まで、民主党のルーズベルト大統領が12年間も政界のトップにいたのである。
東條英機を取り巻く各国首脳の顔ぶれをおさえたところで、この年に何が起こったかを思い出してみよう。
そう、アメリカにとっては忘れられない12月8日のハワイの真珠湾(=オアフ島のホノルルの近く)攻撃である。この日をもって太平洋戦争が始まったわけである。
この太平洋戦争が開戦されるまで、なんとか日米開戦は避けたいと努力していた人がいた。
誰だか分かるだろうか。
東條英機が、陸軍次官だったとき、一時期は海軍次官だった山本五十六(やまもと・いそろく)である。
1940年に、ヒトラーがフランスのパリを占領したとき、ほどなくして、日本はドイツやイタリアと日独伊三国軍事同盟を結んだ。
駐日アメリカ大使は、この同盟にショックを受け、日米間の友好関係を維持するのは無理だと判断し、アメリカは日本に対して中国大陸からの撤退を強く求め、本国からの石油などの輸出を止める経済制裁を発動したのである。
山本五十六は、こうした事態を以前から懸念しており、当時の海軍大臣だった米内光政とともに最後まで同盟に反対していた。
そして、英米と戦争したら日本は負けるという認識を2人とも共有していた。
だが、当時、山本は連合艦隊司令長官に任命されており、日々戦禍が拡大していく中で、葛藤していた。
真珠湾攻撃が行われたのとほぼ同じタイミングで、日本軍は、イギリスの植民地だったマレー半島(=今のマレーシア)に侵攻し、チャーチルを失望させた。
次いで、シンガポールやインドネシアにまで侵攻することを目指し、アメリカに輸出を止められた資源の確保のために無茶ぶりを働くことになったのである。