古典100選(17)土佐日記

私たちが日々の出来事を記録するためにつける「日記」というのは、昔はどんな感じで書かれていただろうか。

平安時代の貴族たちは、公務の記録として日記をつけていたが、中国から伝わった漢詩文などの影響を受けて、漢文体で文章を書いていた。

特に、男性貴族は、教養の深さを測る物差しとして、どれだけ漢詩文に精通しているかは、女性以上に重視されていた。

そういう時代に、紀貫之(きのつらゆき)という人が、『土佐日記』を仮名(今で言う平仮名)で書いたのである。紀貫之は、有名な『古今和歌集』の序文も仮名で書いており、女性による日記文学の隆盛のきっかけを作った人である。

本シリーズでも、第2回に藤原道綱母の『蜻蛉日記』、第4回に菅原孝標女の『更級日記』を紹介しているが、これらの日記文学は、紀貫之が『土佐日記』を書いたあとに世に出てきたものである。

紀貫之は、930年から5年間、実際に土佐守として土佐国(=今の高知県)に赴任していたのだが、任務を終えて京都に帰るまでの55日間の旅の記録が『土佐日記』である。

ただ、その内容はすべてが事実とは限らないのだが、それでも日記としての体裁は残しつつ、随所に和歌も挿入しながら、公用日記にはまず書かれることのない私的感情をうまく表現している。

そして、何よりも冒頭の一文は有名であり、この一文によって、清少納言や紫式部による女流作家の名作が誕生するきっかけにつながったと言っても過言ではないだろう。

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。

つまり、女性が仮名で日記をつけてみようと思いたくなるような書き出しで始まり、以下、こんなふうに日記を書くのだというようなお手本として、土佐からの帰路の旅の様子をつぶさに書いているのだ。

次のとおり、原文の一部を紹介しよう。

十四日、曉より雨降れば同じ所に泊れり。船君せちみす。さうじものなければ午の時より後に取の昨日釣りたりし鯛に、錢なければよねをとりかけておちられぬ。かゝる事なほありぬ。取又鯛もてきたり。よね酒しばしばくる。取けしきあしからず。 

十五日、今日小豆粥煮ず。口をしくなほ日のあしければゐざるほどにぞ今日廿日あまり經ぬる。徒に日をふれば人々海をながめつゝぞある。めの童のいへる、 「立てばたつゐれば又ゐる吹く風と浪とは思ふどちにやあるらむ」。いふかひなきものゝいへるにはいと似つかはし。 

十六日、風浪やまねば猶同じ所にとまれり。たゞ海に浪なくしていつしかみさきといふ所渡らむとのみなむおもふ。風浪ともにやむべくもあらず。ある人のこの浪立つを見て詠めるうた、「霜だにもおかぬかたぞといふなれど浪の中にはゆきぞ降りける」。さて船に乘りし日よりけふまでに廿日あまり五日になりにけり。 

以上である。

最後の文で分かるように、船に乗った日から今日まで25日経ったと書いてある。

鯛や酒、小豆粥などの飲食物が登場するし、天気の様子も分かるし、こういった部分は、現代の私たちも親近感が湧くだろう。

女の子が詠んだ「立てばたつ    ゐれば又ゐる    吹く風と    浪とは思ふ    どちにやあるらむ」という子どもらしい和歌も興味深いものだ。

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