【続編】歴史をたどるー小国の宿命(15)

9代将軍の義尚が亡くなったあと、室町幕府の次の将軍はどうなったのだろうか。

義尚の父親の義政が1490年に後を追うように亡くなったあと、義政の弟の義視の子どもが第10代将軍になった。

その将軍の名は、足利義材(よしき)である。

ただ、管領の細川政元との対立で、この将軍は13年半も逃亡してしまうのである。

史実によると、最初は5年間在職していたが、逃亡によって、将軍職が事実上の空位となったため、第11代将軍として、足利義政の異母兄である政知の子ども、義澄(よしずみ)が迎えられた。

ところが、1507年に、細川政元が暗殺されると、逃亡していた義材は、翌年に名前を変えて「義稙」(よしたね)として将軍職に復帰した。

代わって、今度は義澄が将軍職を追われて、滋賀の近江に逃亡するが、そこで悲運にも30才で病死したのである。

そして、足利義材は、「義稙」として将軍職に再任され、1522年まで14年間在職する。しかし、またもや細川氏と対立して、細川政元の養子である高国(たかくに)に追放されて、阿波国(今の徳島県鳴門市)で亡くなった。57才だった。

次の第12代将軍は、足利義澄の遺児である義晴(よしはる)が、細川高国によって1521年に擁立され、彼は1546年まで25年間、在職することになる。

このように、将軍家が管領の細川氏と対立して、コロコロ将軍が代わっていったのである。

さて、足利義晴が12代将軍になった1521年、のちに有名な戦国大名となる武田信玄がこの世に生まれた。

そして、義晴が在職中には、1530年に上杉謙信が生まれ、1534年に織田信長が生まれ、1537年に豊臣秀吉が生まれ、1543年に徳川家康が生まれたのである。

家康が生まれた年には、種子島に火縄式の鉄砲がポルトガル人によって持ち込まれ、この製造技術で造られた火縄銃が、織田信長と武田勝頼(=信玄の子ども)の長篠の戦い(1575年)で使われる。

ちなみに、武田信玄はその2年前の1573年に亡くなった。室町幕府が事実上の滅亡となった年である。

次週は、いよいよ、この激動の戦国時代に入ることになる。

足利義晴が23才のとき、織田信長が生まれたわけだが、このとき誰が信長の時代の到来を予想できただろうか。







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