【続編】歴史をたどるー小国の宿命(25)

1579年、信長は完成した安土城に移り住んだ。今の滋賀県近江八幡市にあり、琵琶湖の東岸に位置する。

地理上、滋賀県は京都府にも岐阜県にも接しており、信長の出身地である尾張と京都を結ぶルート上にある。

このルート上にある近江国南部は、もともと鎌倉時代から守護を務めていた六角(ろっかく)氏が支配していた。だが、1568年に、信長が上洛する際に戦った結果、六角氏は敗れたのである。

その5年後の1573年には、近江国と北東部で接する越前国(今の福井県)の戦国大名である朝倉義景(よしかげ)も、織田軍に敗れて最後は殺された。

さて、本能寺の変で信長を自害に追い込んだ明智光秀は、もともと美濃国(今の岐阜県)出身であった。

美濃国には、斎藤道三という有名な武将がいて、斎藤道三の正室は、明智光秀の叔母だったのである。

また、斎藤道三の娘は、信長と結婚したので、信長にとって、斎藤道三は義父であった。駄洒落を言うならば、岐阜にいる義父である。

信長と結婚した斎藤道三の娘は、濃姫と呼ばれたことは歴史好きな人ならご存じだろう。それも、美濃国のお姫様だから、濃姫なのである。

そういった縁から、明智光秀は信長の家臣になったのだが、信長に仕える前には、一時期、越前国にも居住しており、朝倉義景に仕えていた。また、足利義昭にも仕えていた時期があった。

1582年5月、光秀と同様に信長の家臣であった秀吉は、毛利輝元率いる軍と戦うべく、備中国(今の岡山県総社市)に侵攻していた。

その頃は、信長と家康が甲州征伐から安土城に戻ってきていた。甲州征伐とは、武田信玄の息子である武田勝頼と、長篠の戦い(1575年)に続いて対決した戦いである。

長篠の戦いは、武田勝頼が、家康の出身であった三河国の長篠城(=今の愛知県新城市にあった)を包囲して戦を仕掛けたのだが、今度は逆に、家康が信長と、武田軍の領地に踏み込んだわけである。

その甲州征伐によって、武田勝頼は自害に追い込まれ、甲斐の武田氏は滅亡した。その大勝利に酔いしれているところへ、秀吉から援軍の要請があった。

信長は、京都の本能寺で一時的に休養し、家康は大阪の堺を遊覧していた。先に、明智光秀が秀吉の後方支援のために備中国へ向かったはずだったが、実際は、夜のうちに本能寺の包囲に向かったのである。

6月2日の夜明け、本能寺に火が放たれ、信長は息子の信忠とともに、炎の中で自刃し果てた。48才だった。





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