歴史をたどるー小国の宿命(98)

1368年は、後村上天皇の死没や足利義満の将軍就任のほか、もうひとつの出来事があった。

それは、鎌倉幕府が苦しめられた元(げん)が、中国本土からモンゴル高原に撤退し、中国は自国の領土をほぼ取り戻した。

そして、のちに足利義満が貿易を開始する明(みん)という国が建国された。明の初代皇帝は、朱元璋(しゅげんしょう)であり、洪武帝(こうぶてい)とも呼ばれた。

洪武帝は、首都を今の南京に置いた。その後、息子の永楽帝の時代に、北京に移されることになる。

さて、日本では、新たに天皇となった長慶天皇が、実は、後村上天皇よりも強硬な立場であり、南北朝合一が和平的に進められるかどうか、黄信号が灯った。

そんな中、楠木正儀は、自ら北朝側に離反した。つまり、足利義満側に回ったのである。それだけ、後村上天皇以上に、長慶天皇とはそりが合わなかったのである。

南朝の長慶天皇に対して、北朝の天皇は、このとき、光厳上皇の息子の後光厳天皇が務めていた。光厳上皇は、北朝の初代天皇だったことはすでに触れたとおりであるが、長慶天皇が即位する4年前に死没している。

楠木正儀は、まだ11才だった将軍・足利義満に、南朝の総大将として謁見した。事実上の寝返りである。そして、それが室町幕府にも受け入れられたので、まだ幼い義満の補佐役を務めることになった。

このことは、義満への謁見前に南朝側に知られることとなり、長慶天皇をはじめ主戦派の武士たちは、楠木正儀の裏切りに怒り狂った。

楠木氏一族でさえ、許しがたい行為であった。

ただし、すでに述べたように、楠木正儀は非常に優秀な人物である。

これも、南北朝合一を和平的に進めるための、彼なりの考えや計画があってのことだった。

事実、彼はのちに南朝に帰参している。

ただ、一族をはじめ反感を買った南朝側の人間に追討されることになり、幕府側は彼を救出する作戦を遂行し、無事に京都に迎え入れた。

ここから事態は、どう動いていったのだろうか。続きは、明日である。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?