現代版・徒然草【46】(第236段・後編)

今日は、昨日の続きで、同じ段の後半④の文を読み直してみよう。

④御前なる獅子・狛犬、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、「いかに殿原(とのばら)、殊勝の事は御覧じ咎めずや。無下なり」と言へば、各々怪しみて、「まことに他に異なりけり」、「都のつとに語らん」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社(みやしろ)の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍らん。ちと承(うけたまは)らばや」と言はれければ、「その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候う事なり」とて、さし寄りて、据ゑ直して、去(い)にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

以上であるが、古文が苦手な人は、この一文だけでも、何のことやら分からない。

だから、会話文を拾ってみるとよい。

「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、という部分は、獅子の立ち様が珍しいものであり、何か深いわけがあるのだろうと聖海上人が感涙したのである。

通常の神社では、獅子も狛犬も参詣者に背を向けるように置かれていないのに、この名高い出雲大社では背を向けて置かれている。

やはり特別な神社だからこそだろうと、一緒に参拝した人に「いかに殿原(とのばら)、殊勝の事は御覧じ咎めずや。無下なり」と言ったのだが、これは、「こんな優れたところに気づかないのは、情けなや。」という意味である。

だから、同行者は、その獅子や狛犬の置かれ方を不思議がって、「都のつとに語らん」(=土産話にしよう)と上人に同調したのである。

そして、上人がそのわけを近くにいた神官に聞きに行ったのだが、「さがなき童どもの仕りける、奇怪に候う事なり」と言われたのが、このお話のオチである。

あれだけ感動して涙も流したのに、獅子や狛犬の置かれ方は、特別な意味もなく、悪ガキどもの仕業であり、神官も「けしからんことだ」と言ってさっさと元の位置に直して去ってしまった。

なんでもありがたがる前に、疑ってかかりなさいという教訓であろう。



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