歴史をたどる-小国の宿命(43)
六女の嬉子が1007年に生まれたとき、道長の長女の彰子は、まだ一条天皇との間に子どもが生まれていなかった。
嬉子が誕生して1年後に、長女の彰子に待望の第1子(男の子)が生まれた。
それが、第68代の後一条天皇であることは、すでに紹介したとおりである。
そして、三女の威子が后になった。
長女の彰子は、第1子誕生の翌年に、第2子も産み、それも男の子であり、のちの第69代の後朱雀天皇になる。
では、後朱雀天皇の后になったのは誰かというと、六女の嬉子である。
ただし、このとき、道長はすでに亡くなっていた。
後朱雀天皇が即位したのは、道長の死の8年後である。
後朱雀天皇と嬉子との間にも男の子が生まれ、その男の子が第70代の後冷泉天皇になる。
こうして、道長の六女まで、家系の存続のために、長女の彰子が産んだ子どもと結婚したわけである。
さらには、後朱雀天皇は、道長の次女の妍子が三条天皇との間に産んだ女の子(禎子内親王)とも結婚し、そこで生まれた男の子が、第71代の後三条天皇になる。
道長が二人の源氏の娘と結婚し、一夫多妻制が当たり前だった時代に、自分の娘やその孫を身内同士でも嫁がせるという近親相姦が、道長の死後もなされた。
だが、それも後三条天皇の代で途切れることになる。(後三条天皇は1073年に退位後、まもなく亡くなる)
そして、このあとは、第72代の白河天皇の時代に突入する。
1073年から1185年までの平安時代末期は、どんな時代になったのだろうか。
来週をお楽しみに。
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