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森羅万象とアトムの心

コンピュータやそれを搭載したロボットが、どんどん人間に近づいてきているように感じるにつれ、谷川俊太郎の『夜のミッキー・マウス』という詩集にあったアトムの詩の一節が、ずっとあたまから離れないでいます。

夕日ってきれいだなあとアトムは思う
だが気持ちはそれ以上どこへも行かない

「気持ちはそれ以上どこへも行かない」ということに、「人とコンピュータの境」、「心とか魂の秘密」があるような気がしているけど、その問いはまだ仮置きのままです。

【百三歳になったアトム】
・・
もう何度自分に問いかけたことだろう
ぼくには魂ってものがあるんだろうか
・・
どこからあの懐かしい主題歌が響いてくる
夕日ってきれいだなあとアトムは思う
だが気持ちはそれ以上どこへも行かない


ちょっとしたプログラムのバグなんだ多分
そう考えてアトムは・・
─『夜のミッキー・マウス』谷川俊太郎(新潮文庫)

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でも、なんとなく、こういうことかも。と、繋げることによって見えてきた本が二冊。

このように、からだに沁みついた、かつての記憶──私どもは、これを”生命記憶”と呼んでいますが、これが忽然とよみがえる‥‥。もちろん意識下です。そして、この無意識の「回想像」が目前のコップの「印象像」の裏打ちをする。二重映しができるわけです。
─『内臓とこころ』三木成夫 (p.40) (河出文庫)

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人は胎児のときに、生命が誕生してから辿ってきた何億年もの進化の過程を超高速に追体験するそうですが(詳しくは同著者の『胎児の世界』をどうぞ)、その記憶がからだ(内臓)に沁みついていて、その記憶が意識下に残っているらしいのです。そして、この「二重映し」という「似ている異質な二つのものが結びつく」という状況がさまざまなことを生み出したようなのです。

いってみれば、”いまの此処”に”かつての彼方”がよみがえる‥‥。どんなものにも、そこには奥行きというものが認められているのでしょう。
─『内臓とこころ』三木成夫 (p.117)
私たち人間は、しかも人間だけが、この自然の森羅万象に対して、ある時は、限りない畏れと、またある時は限りない親しみ、そして懐かしさを覚える‥‥。これらはすべて、こうした過去の記憶の再燃によるものです。そしてこれは逆に、新鮮なものに対する衝動的な関心を呼びさますのです。たとえ、”こわいもの見たさ”であってもいい‥‥。いわゆるこれが「好奇心」というものです。
─『内臓とこころ』三木成夫 (p.117)
上の子どもが、初めて窓辺で雀を見た時、抱かれたまま、さっそくちっちゃな人差し指を伸ばしました。そしてすぐに部屋のなかへ向きなおって、こんどはいつも見ているガラガラを指さすのです。そこには小鳥の飾りが付いている。あれと”おなじ”だというのでしょう。この乳児にとって、同じものを発見したということは、まさしく初体験です。そこでは、さきほどの「印象像」と「回想像」の二重映しが現れたことは申すまでもない──おそらく生まれて初めての、ひとつの感動だったのでしょうね‥‥。
─『内臓とこころ』三木成夫 (p.120)

そして、自然と心を結びつけて捉えてきた東洋的世界観と、生命の仕組みを西洋的な思考方法でコンピュータにまでつなげつつある現在の状況をつなげるヒントになる南方熊楠の描いた世界。

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「緑の論理」自体、じつは原生林のあり方と、同じ原理でできている。「緑の論理」は、「東洋の哲理」の伝統の中でだけ、発達することができたものだ。生命のプロセスに複雑柔軟にフィットする、このような論理を深化させることによってのみ、多様としての世界を描くことが可能だ。新しい生命の学は、デカルト流の因果論理ではなく、このようなトーテミズム的、原生林的、東洋哲理的な、多様体の論理をみずからのうちに組み込まなければならないと、熊楠は考えた。
─『森のバロック』中沢新一 (p.42) (講談社学術文庫)
また、森は「流れ」をも体験させてくれる。森はいっときも静止していない。どこかの微小部分では、たえまなくカタストロフィー的な変化がおこり、それはまわりに波及したり、調節作用によって、波及にストップがかけられることもあるが、全体として見たときの森は、たえず変化し、たえずなにかをつくりだしている「創造的な流れ」を滞在させていることが、直観される。              
─『森のバロック』中沢新一 (p.42)

森を見ることによって、変化自体が常態であることが見える。今、VUCAの時代といわれるけど、変動性も不確実性も複雑性も曖昧性も、それこそが「もともとの姿」で、ただそれがゆっくり動いていたから見えていなかっただけ。梅の花が開花するのをじっとみていても、あまりにゆっくりなので、止まっているようにみえる。けれど、ちゃんといつの間にか花が咲く。
人間の「ものさし」自体が不確実なのだから、南方熊楠が思考した世界観を見直すことはとても大切なのではないかと思う。

南方熊楠は、生命にとって、現実と幻想の間の違いはない、と考えている。
─『森のバロック』中沢新一 (p.291)

すべては「見方」が決めていく。いろんな「見方」の組み合わせによって見える世界が移っていく。アトムのように「美しい」という単体の見方ではなくて、人は複数の見方(網状の連想)で世界を見ている。はず。

こうしてみると、オートポイエーシス論と東アジア的生命論とは、たがいを鏡のように映しだす関係にあるのだ、ということが理解される。そのふたつの鏡像が、いまひとつの共通の像に、収斂していこうとしているのである。現代のオートポイエーシス論は、西洋的な論理を極限まで推し進めることによって、しだいに鏡の表面に近づいてきた。それといっしょに、反対側からも、共生の東アジア的生命論は、生命が環境の中に埋め込まれながら、自律性をもったひとつの個体として生きている、という事実の重大さにも気がつき、たしか自分の仲間にも、そういうことを強調しながら、生命の全体像を描こうとしていた思想仲間がいたことを、思いだすのである。
それが「マンダラ」なのだ。    
─『森のバロック』中沢新一 (p.304)

でも、アトムは変わるかもしれない。西洋的思考のサイエンスは力技でそこを突破しようとしているから。宇宙の秘密をつかんでいる量子力学の方法を取り入れた量子ゲートコンピュータが完成したら、もしかしたらアトムの気持ちが「それ以上」のところへ動くのかもしれない。

変化を続ける全てのもの、今生まれたばかりのナニカ、数億年も昔からそこにいたナニカ、足元にうずくまっているナニカ、遠く地球の裏側で産声をあげたナニカ。そんなものたちが「あそこのオデコのおじさんのところに行けばステキな詩にしてもらえるらしいぞ」とウワサがウワサを呼び、ワラワラと谷川さんの周りに集まっては「詩」に詠んでもらう順番を待っている
─『夜のミッキー・マウス』谷川俊太郎 解説:しりあがり寿
きまぐれなのか、作戦なのか、谷川さんは押しかける森羅万象をひとつづつ丁寧に淡々と詩にしているに違いない。ボクもそんな森羅万象と共に詩の列に並びたい。
─『夜のミッキー・マウス』谷川俊太郎 解説:しりあがり寿

森羅万象を思考して森羅万象を感じる。

万葉集から芭蕉の俳句、現代詩、音楽界の歌まで、連綿と、古今東西の詩人たちはみんな、心にうつった自然の波動を歌にしてきたことを、それこそが、心の足跡。かけがえのない宝だと思う。

森羅万象に気持ちが動いたことを誰かに伝えたいと思った人々の証。

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