受け継がれゆくもの

 私は書店で働いている。小さな街にある、小さな書店。

 子供の頃から本の虫であった私は、大きくなったら必ず書店員になりたいと思っていた。仕事なので楽しいことばかりではないが、一つの夢であった書店員になることができたということもあり、それなりにやりがいを感じながら働けている。

 近年では書店が街から消えている。特に中小規模の書店、いわゆる「街の本屋さん」は、厳しい状況に置かれているといえるだろう。

 もちろん、私が働いている書店も例外ではない。書店員になって5年くらい経つが、客足も売上も年々減ってきているのを感じざるを得ない。経営者でもない単なる一書店員の私ですらそう感じるのであるから、経営者目線ではより深刻であろう。

 あと何年くらい、ここで書店員を続けられるのだろうか。

 店内を見渡す。今日も店長は呑気にあくびをしながら本の陳列をしていた。緊張感というものはないのかこの人には……。

 ある日、人気漫画の最新巻が入荷した。こういう時期というのは、特に街の本屋にとってはまさに「かきいれ時」である。小説でも漫画でも、人気作品が世に出ることは本屋としてもありがたい。

 開店してまだ間もない時間に、小学校低学年くらいの男の子が、例の漫画の最新巻をレジに持ってきた。

「484円になります」

 それを聞いた男の子は財布からお金を取り出す。小銭がたくさん。少し会計が面倒になりそうだったが、相手は子供である。微笑ましく見守ることにした。

 子供はじゃらじゃらとカルトンに小銭置いた。その置かれた小銭を数える。

「48……2円か。あと2円持ってる?」

「……え? お金足りないの……?」

「うーん、あと2円だけ足りないね。財布の小銭入れの所に入ってないかな? それか、お札はあるかい?」 

「ううん。これで足りると思ったんだ」

「お父さんやお母さんは一緒に来てる?」

「僕一人だよ」

「ちょっとだけお金が足りないから、貰ってからまた来てくれるかい?」

 後ろには、同じように漫画を買い求めに来た人たちが行列をなしていた。時計を気にしてる人もいる。子供には可哀想なことをしてしまうが、こちらも客商売である。厳しいが、仕方がない。

「……わかった」

 子供は少し泣きそうになりながら、取り出したお金をサイズに戻し、レジを後にしようとしていた。

 泣き出しそうな理由はなんとなく分かる。それは、単純にその漫画を買えないからではなかった。男の子が手にしていたのは数量限定の付録付きのものであり、そうではない物よりもすぐに売れてしまう。だから朝早くからこの書店を訪れてくれたのだ。

 おそらく、また買いに来る頃には売れてしまって残ってはいない。他の書店も同様であろう。 

 しかし、1円でも足りないと、たとえ子供相手でも勝手に売り渡すことはできない。個人的には売ってあげたいのに、である。まして相手は子供。子供にとって厳しすぎる対応になってしまうことに胸がずきずきと痛んだ。

「店員さん、この子はいくら足りないんですか?」

 突然、男の子の後ろに並んでいた大学生くらいの人物が声をかけてきた。

「え? あ、えーっと、2円だけ足りないんです」

「僕が出すので、この子にその漫画を売ってあげてください」

「え? ……本当にいいんですか?」

「はい。本は子供にとって宝なんです。それが漫画であっても変わりはありません」

 ふと男の子の方へ目を遣ると、キョトンとした顔でやり取りを見ていた。

「ボク、その漫画がとっても好きなんだね! お兄さんもその漫画大好きだよ。同じ漫画が好きということは、お兄さんたちはもう友達だね。友達になった記念に、今日はその漫画をお兄さんからボクにプレゼンもさせてほしいな」

「え……、でも……」

 その人物が声をかけると、男の子は申し訳無さそうにもじもじしている。

「いいんだよ。その代わり、お父さんやお母さんには内緒だよ」

 そう言いながらその人物は漫画の代金を差し出す。超過分をお釣りとして返金し、袋に入れた漫画を子供に渡した。

「わぁ! ありがとう! 店員さん、お兄さん!」

「またどこかで会ったら、感想教えてね! じゃあ、気を付けて帰るんだよ」

「うん! 本当に本当にありがとう!」

 男の子は元気に頷くと、ほとんど駆け足で本屋を後にした。

「じゃあ次は僕の本の会計を……」

 その人物は、自分が購入する予定の本をレジで差し出してきた。

「あ、はい。かしこまりました。……あの男の子、相当嬉しかったようですね」

「そうですね。まるで、あの時の僕を見てるみたいです」

「あの時?」

「そうです。僕のこと、覚えてませんか?」

 唐突な問いかけに、頭が混乱する。誰だろう? うーん、思い出せない……。

 けれど、不思議な感覚だ。言われてみると、なんだか思い出せそうな気がしてくる。

 しかし、手掛かりが一向に掴めない。誰だったっけか……?

「僕は……。さっきの少年のように、本屋さんで救われたんです」

「本屋で救われた……?」

「そうです。僕はそれと同じようなことをしただけなんです。……あなたみたいにね」

 思わず、会計をしていた手が止まる。昔の記憶がすーっと蘇ってくる感覚。淡い淡い記憶。意識していなければ、いずれは消えていたであろう記憶。それが、今この瞬間、目の前に浮かび上がる。

「あ……。もしかして、昔話僕が書店で本を譲った、その時の少年かい?」

「思い出してくれましたか! そうです、あの時の少年が僕なんです!」

 その青年はニッコリと笑う。その笑顔を見た瞬間、頭の片隅でぼんやりとしていた記憶が徐々に鮮明になっていき、そしてついに鮮やかに映し出された。

 __昔、まだ私が書店で働くずっと前のこと。その当時からすでに出版不況が始まっていた最中、とある人気作家が新刊を出版した。

 人気作家の新刊の出版は、出版不況に喘ぐ出版業界にとっては非常にありがたい。つまり、小説と漫画という違いはあるが、概ね今回と同じような状況である。

 その人気作家は、私にとっても大好きな作家のひとりであったため、書店には朝早くから並んだ。自分が書店を訪れた時点で既に行列ができていたが、なんとか購入することができた。

 書店で本を買う楽しみは、本を読む時とはまた違う、「独立した楽しみ」があるものである。それは本を何度買おうが変わることはない。

 目的の本を購入し、書店をあとにしようとしていると、息を切らしながら書店に入ってくる一人の少年が見えた。書店はそんなに急いで来る所ではないと、その少年を可笑しく思ったが、自分が今手に持っている本を見てピンとくる。

 あの少年はもしかするとこの本を買いに来たのではないか?

 しかし、あまり大きな書店ではない上に、朝早くにもかかわらずあの行列だったのである。もう在庫は残っていないだろう。

 少年の様子が気になり始め、少し様子をうかがうことにした。すると、案の定落胆した様子の少年が歩いてくるのが見えた。

 やはり買えなかったか……。まぁ、悪く言えば「たかが本」である。他の書店を巡ればあるかもしれないし、またすぐに入荷するのを待てば良い。

 しかし、である。出版業界が厳しい状況である中、真に守るべき読者というのは、未来の読書人を担う子供ではないだろうか? 子供から読書をする喜び、本を買う楽しみを、大人が奪っても良いのだろうか?

 そう思うやいなや、気が付けば身体が勝手に動いていた。

 とぼとぼと本屋の出口に向かう少年の元へ駆け寄る。少年の元へあと少しの距離というところで、向かってくる私に驚いた少年もこちらの方を振り向いた。

「もしかして、君もこの本を買いに来たのかい?」

「えっ……? あ……、うん。でも、売り切れてたんだ。だから、また別の本屋をいくつか巡って、無かったらまた入荷してくるのを待つことにするよ」

「よかったらこれ、君にプレゼントするよ」

「えっ? でもこれはおじさんのだから……」

「この本が目当てだったんだろう? おじさん、間違えて2冊買っちゃってね。だから、この本どうしようかなって思ってたんだ」

「本当にいいの……?」

「君がこの本を目当てでこの書店を訪れたということは、この本もまた君に買われるのを待ってたんだよ。だから、この本は君に貰われるべきなんだ」

「あ、ありがとう! えーっと、お金は……」

「お金はいらないよ。プレゼントだからね」

「でもそれは悪いよ……。あと、お母さんから、「タダより高いものはない」って言われてるから……」

「うーむ、君のお母さんは君に大切なことを教えているね。そしたら……、じゃあこの本をプレゼントするから、君もこういう風に子供たちがもっと読書を好きになるような行動ができる大人になってね。それがこの本のお金の代わりだよ」

「本当に、本当に本当にいいの? ……分かった! 約束するよおじさん! おじさん、ありがとう!」

 自分はもう「おじさん」と連呼されるような年齢になったのか、という切ない気持ちは一旦置き、本を受け取って嬉しそうに笑う少年の顔を目に焼き付けた__。


「おじさん、僕、あの時の約束果たせたかな?」

「うん、たしかにあの本の「代金」は受け取ったよ。立派だった。あの子も読書がもっと好きになって、いずれは君のような行動を取ってくれるといいね」

「僕もおじさんのおかげでもっともっと読書が好きになったよ。読書の未来を守るということは、将来の子供の読書の機会を守ること。これからも僕は、おじさんと一緒に守っていくよ!」

「うん、一緒に守っていこう」

「それよりおじさん、会計大丈夫? ほら、後ろ」

 青年の後ろからは、長蛇の列をなす人々の視線を鋭く感じることができた。

「あ! ヤバい!」


 __私も一人の少年の読書の未来を守ることができました。その少年は、私との約束通り「子供の読書の未来」を守りました。こうして、過去から現在、そして未来へと繋がっていくのですね。

 そうですよね? 私が子供の頃、書店で同じように本を譲ってくれた店長。私の読書の未来を守ってくれた店長。

 ふと、店長を見る。今日も店長は呑気にあくびをしながら本の陳列をしていた。

「相変わらず今日も、まるで緊張感がないな」

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