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言葉の伝え方とアルハラ

相手にわかるように、丁寧に言葉を選ぶ。
相手を思って、相手目線で言葉を伝える。

そんなこと、当たり前だと思えるくらい、すごく考えてやっていたつもりだった。

だけど、全然できていなかったことに最近気がついた。

結論から言えば、どれだけ相手に合わせて言葉を選べていても、相手が理解できていたとしても、相手が欲しい量で伝えることができていなければ、その言葉は受け入れたいものでなくなってしまうということに、気が付かされたという話だ。

何回も何回も人生を通してやってきたこと。長いこと、コップに注ぐ量を、間違え続けていたことに、今更気づいたという、なんとも悲しい話だ。


仕事で後輩に何かを教えるとき、私生活で誰かに何かしらのアドバイスをするとき、自分は常に相手目線でその物事を考えるように気を配っていた。相手がどんなことを言ってほしいのかを含め、洞察のマネごとをしているつもりだった。

理論立てて相手に何かを話すことは比較的得意な方だったように思える。
勉強や仕事をひとに教えることはけっこうあったし、割と評判も良い方だった。

だけど、最近たまに、相手が求めている以上に説明しすぎているのではないかと思うことがあった。

これまで僕は、後輩などが間違ったことをやってしまって僕に教えをもらいにくるときに、相手のレベルにかかわらず、基本的に上から下まですべて話し切って、だからこのようになった、と説明しきるタイプだった。

それは、彼や彼女にとって分かっているところまで説明されるのは、ある程度は堪えるものであろうからと思って、わざとやっていた。

しかし、ひとによって堪えられる範囲が違うにもかかわらず同じやり方をしていることに不信感を覚え、それが適切ではないかもしれないと思い始めていた。

それを先日、ある知人に話したところ、
アルハラとやっていることはいっしょ。」と一蹴された。

みぞおちを深く打ち込まれたような気分になりながらも、自分の違和感を的確に体現された綺麗な感覚も合わさり頭がおかしくなりそうだった。

さきほど「相手のレベルにかかわらず、基本的に上から下まですべて話し切って、…..」と言った部分、これは正直、自己満足の類だった。

相手が6割で理解できているし、理解できていることをわかっているのに、それを10割埋める言葉で渡す。

たぶん、10割わかっている自分を、誰かに褒められたいのかもしれない。最低の自己満だ。

話が逸れかけたが、結局、彼や彼女が180mlで十分だというビールを、僕は300も500も注ぎ続けて飲ませていたのだ。

本質的にはアルハラと何ら変わりない。


きっと、相手に応じて言葉を選んで、言い方を選ぶことは、ちょっとはできている。これもずっと本当にそうなの?と自問し続けながらもっとできるようにならなければならないことだと思うけど、もっと大事なのは、今回気づいた言葉の量を相手に合わせて調節することだ。

相手との関係や互いのレベルにも、適切な量は左右される。
そのときどきで、自分の発している言葉の量が相手にとって適切かどうかは、反省を繰り返していかなければならないなと思う。

脱、アルハラを目指して。

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