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森(2話)

 階段をダッシュで駆け上がる。頭上には青空と、穴が空いたように真っ白く光る太陽。それと女子の声。言葉にすれば青春に収まりそうだが、実際は違った。

 まず暑い、息ができない。階段はめっちゃ長く、両腕を交互に振り、両足を交互に持ち上げる、その動作を中断することは許されない。一番後ろにはそれを引き起こした少女の、少女らしからぬうめき声。

 自分が可憐な女の子であったことを忘れたみたいな声、ここが陸であったことを瞬間忘れるくらいの息苦しさ、ここが陸であったことを幾度なく思い出させる太陽の暑さ。それらが折り重なってできるこれを青春と呼べるのはよほど外側の人間だろう。

 中学生男子は列の真ん中よりは先頭よりに近いところで駆け上がっていた。階段は登り切ると、最後の人が着くまで休憩ができる。もちろん膝に手をついて息を整えることは許されないが、新鮮な空気を余裕を持って吸えるのは貴重だった。列の最後の人は着くなり、休みなしで階段を降りる作業に移行しなければならない。

 つまり中学生女子がその作業を従事する者に当たるわけだが、どういうわけか彼女はすぐに降り始めることができない。それどころか何度注意しても、膝に手をおいて休むのをしてしまう。そのせいでまた階段ダッシュが終わらない。最初は5セットだったのにも関わらず、もう15セット目になる。また増やされかねないと危惧した中学生男子は中学生女子を注意する。しかし、注意した声で顧問にバレてしまい、5セット追加になった。

 なぜ自分が睨まれなくてはいけないのか。中学生男子が抱えるモヤモヤは発散の場所を未だ知らない。睨み返せば、いつかの連帯責任を生み出すきっかけになりかねないし、顧問に反抗しようものなら連帯責任プレミアムを頂戴しかねない。

 こんなことになっている原因の中学生女子を足払いでもしてやろうかという気分に苛まれるが、それをすればプレミアムをこうむるだけならず、女子に手を出した奴というレッテルまでついてくる。もしかしたらいじめに発展するかもしれない。

 中学生活ずっと女子から無視される想像は、中学生男子の衝動を押し留める理由になりえた。

 中学生男子は坂を降りるスピードを緩め、中学生女子の隣にきた。練習開始こそ、彼女に好意ないし下心を持つ男子が同じようにしていたが、それはこの地獄のメニューと、彼女がそれを追加させた原因になることで、簡単に0にした。

「あのさ、何度注意したら分かるわけ」

 お前さ、何度注意したら分かるんだよバカが、と言いたいのをここまでまろやかにしたというのに、それを知る由もない中学生女子は申し訳なさそうな顔をする。まるで自分が責めているみたいではないかと中学生男子は続く言葉を飲み込んで、彼女の返答を待つことになった。

「ごめん。わたし。邪魔してるよね」

「そ、そんなことはないけど」

 彼女の刹那げな表情に中学生男子は中学生男子らしい反応よろしく返してしまう。

 階段を登るのに対して降りることに関しては顧問は寛容だ。もちろんふざけていたり、あまりにも騒がしくしていれば怒られるだろうが、何度も地獄を繰り返されている部員たちにそんな体力は残っていない。膝に手をつくのも降りながらではできないし、水分補給をする場所も階段の途中にあるはずもない。多少会話をするくらいなら心配はなかった。

「本当にごめん。男子バスケ部、ナメてた」

 笑いながら言ってはいたがその表情は真剣で、中学生男子はそのあとに『辞める』といった意味の言葉が続くのを思わず期待する。が、「私、頑張るから」と謎にガッツポーズをされただけだった。

 頑張るって、つまりお前が頑張っている間、俺たちも連帯責任で頑張らないといけないってお前わかってんのかよ。

「そうか、まぁ、頑張れよ」

 言い終わると、先頭が階段を降り切ったところだった。早くしろよと言ってはいるが、その表情は休みたいからもう少しゆっくりでいいぞと言っている。なんだったら誰か時間を止めてくれ、顧問のだけでいいからと、その眼がありありと語っている。その願い虚しく、中学生男子と中学生女子も階段を降り切った。

 瞬間、ピッと笛を鳴らされ、先頭が駆け上がり始めた。もう話すことなどない中学生男子はもう少し休みたそうにしている部員をおいて、駆け上がる。その最中、「膝に手ついて休むのは、マジでやめてくれ」と中学生女子に言うのを忘れなかった。今度は言いたいように言えたが、彼の気持ちが晴れることは、きっとまたやるんだろうなこいつはという思いによってなかった。

 返答はなかったが、追加の5セット後、彼女が腰に手を当て、口をあんぐりと開けて、空に向けているのを目にして、ようやっと理解してくれたかと中学生男子は安堵した。その場にいた部員の誰もがどうせまたすぐに元に戻るのではという疑念はありつつも、ひとまず安堵した。

 階段ダッシュの練習が終わったとき、時計は頂点を差していた。

「昼休み!」という顧問の鶴の一声に、誰もが腰をその場に落とす。「あ」と部員に背中を向けて歩き出そうとした顧問が続けた瞬間、全員がその場に直立する。中学生女子は遅れたが、
「いい、いい。楽にしろ」と事なきを得た。

 にも関わらず、

「昼からは二年生と仮試合するから、昼休み終了の十分前にはアップするように」という顧問の指示に、
「それって昼休みじゃないんじゃ」と中学生女子がつぶやくものだから、その場にいた誰も顧問が校舎の中に消えるまで楽になんてできなかった。

 誰もの脳内に「追加で5セット!」という声が再生された。

「まったく、なんだよあの女」
「まったくだよ」
「まったくだ」
「まったく!」

 中学生男子がバスケ部に入る理由になった部員たちは、夏休みも昼休憩用に解放されている教室に入るなり、口々に中学生女子を非難する。

 お前もそう思うよな? 中学生男子は聞かれてすぐには答えられなかった。

「マジで、顧問か、ボールを触らせたくない二年生からの刺客かと思ったわ」

 言い終わった瞬間、次の非難の対象になりたいのか? といった空気は笑いに変わる。

「やべ、顧問のことで笑っているとかバレたらまた追加されちまう」
「連帯責任だ! ってか」
「おま、やめろよ。モノマネ似すぎて一瞬びくったわ」
「すまんすまん」
「あいつ、やめねーかなー」
「お前言ってやれよ」
「いやだよ。お前が言ってこいよ」
「そういえばさ、お前今日あいつと喋ってたろ? ちゃんと言ってやったか?」

 中学生男子に言ったのは、階段ダッシュが始まってすぐに練習後のデートに誘ったやつだった。こいつはそれをいじるとまじでめんどいとわかっている中学生男子は「いや」と返す。

「じゃあ、何か? このあとカフェでも、とか誘ったんか?」

 やっぱり言ってやろうかという気持ちになった中学生男子だったが、以前喧嘩になって連帯責任になった経験が押し留める。

「いや膝に手をついて休むのをやめろって言っただけ」
「それ、前半部分いらねぇだろー。やめろだけでいいんだよやめろだけで」
「お前が言えし」
「いや、お前が言えし」

 中学生男子が指さして言ったのを、指をさし返す部員。

「お前が言えし」
 中学生男子は違う部員を指さす。
「いや、お前が言えし」
「お前が言えし」
「いや、お前が言えし」
「お前が言えし」
「いや、お前が言えし」
「お前が言えし」
「いや、お前が言えし」

 誰に言っても自分に返ってくることを確認しただけに終わった中学生男子は「そういえばさ」と話を変える。

「朝、早起きして学校行ってただけで、森に行ったかどうか疑われたわ」

「森、行ったん?」

 行ってないと答えるより早く、

「あの女、森に連れて行けばいいんじゃね?」
「あーそうしたらもう少しマシになるかもな」
「そしたら俺のこと、好きなるかもな」
「それよくなってなくね? なんなら悪化じゃん」
「は?」
「は?」
「ひ」
「やめよやめよ。だりぃ」

 はひふへほ合戦は前半で終わりを見せた。しかし、森の話はつきない。森に行ったら親父の酒飲みの性格が治った、森に行ったら母ちゃんのテレビショッピングを観たらつい買っちゃう癖が治った、森に行ったら母親のつくる料理が上手くなった。

「俺の両親は、今日森に行ってたよ」

 中学生男子は自然な話の流れで言ったつもりだったが、部員たちはしんとなる。しんとなったあとでざわざわしだし、それがくすくすだと彼が気づいたときにはどかんと一発笑いが起こる。

 なんだよ、言えよ、キモイぞの返答はニヤニヤ。それだけでなく誰もが中学生男子の肩を叩いて御愁傷様と言った。

「ひとりじゃなくて、二人で行くってことは……なぁ?」
「なぁ?」
「なぁ?」
「にぃ?」

 全く似ていない猫のモノマネ。それでもその場にいた男子部員全員が声の方向を向いた。聞こえてきた声が高く、また方向も中学生男子たちがいる場所からは違うところから聞こえてきたからだ。

 中学生女子は廊下側の窓を開けてできたスペースに両ひじをついて、猫のポーズをしていた。

「な、なんでここに」

「今日はいっつも一緒に食べてるバレー部が休みだから。ひとりの教室はさみしくって」

 笑って答える彼女は、肩を回したり、伸びをしながら「疲れたね」と続けた。

 誰も「お前のせいだろ」とは言わなかった。誰もが思っているが、そんなことを心の最前面に置く余裕がなかった。

「い、いつから話聞いてた?」中学生男子が聞く。他の男子部員からよくぞ聞いてくれたという視線を浴びるが、彼自身も余裕がないせいでその賛美を知ることがない。

「んー、森のあたりから」

 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、

「で、森ってなに?」とたずねられた瞬間、その場にいた誰もが教室を走って出て行く。何人かは昼食と練習兼用の水筒を忘れていた。それを大声で伝えても、返答は焦っていることが丸わかりの「いらない」

「みんな、どうしたんだろうね」
「さ、さぁ。みんな早くボール触りたいとかじゃね?」
「きみはいいの?」
「ま、まぁ俺は別に」

「で、森ってなに?」中学生女子は先ほどと同じ言い方でたずねる。

「ま、まぁ俺は別に」中学生男子は先ほどと同じ言い方で返す。

 なにそれという彼女は笑っていた。

「ご飯は、食べたの?」
「うん」
「食べたなら、練習行ったほうがいいんじゃない?」
「なんで? まだお昼休みじゃん」

 中学生女子のきょとんとした表情に、中学生男子もきょとんとした。

「なんでって、上手くなりたくないのかよ。レギュラーになれなかったら試合に出れないし、そもそもボール練習もさせてもらえない。毎日外で走ってばっかの練習でいいのかよ」

 中学生男子の焦ったような表情に、はじめは中学生女子も驚いた表情を見せたが、すぐに困ったような顔になる。

「私、どれだけ上手くなっても、試合には出られないから」
「あっ……ごめん」
「いいよ」

 しばらく無言が続く。中学生男子は練習に行きたい気持ちとは別にもう少し話していたいと思い始めている自分に、戸惑いつつも、心が後者に傾いていく。

「あっ、いいよっていうの嘘。やっぱりゆるさない」

 許さないと言いつつ、その顔に浮かぶのは笑顔。どこかいたずらな笑顔。男子のニタニタとは違うニタニタ。こっちがニタニタしそうになった中学生男子。

「だから森について教えてよ」

 中学生男子が目を逸らす理由が一瞬にて変化した。全身がぶるっとふるえる。教室内に充満するエアコンの冷気のせいではない。

 彼が森について知ろうとしたときに豹変した両親の表情、両親からの暴力、暴力によって受けた痛み。それらが一瞬にして思い返された。他の男子部員と会話したときには感じなかった感覚。女子だからではない。彼女が町の外の人間だからだ。

 本当に許されなかったほうがどれだけよかったか、と中学生男子は考えた。

 森の存在は町の外の人間に知られてはいけない。それはいたるところで聞かされたことだった。例えば子守唄で、例えば公園で行われる紙芝居で、例えば怖い話の一部で、例えば悪いことをしたときの母親からの叱責で、例えばこの町の地方新聞の中で。だから、当然のことだった。それがなぜなのかを知らないくらい当然のことだった。

 それがいつのことからなのか、誰が発祥かもわからない。だが、それが当然だということは、体にしみこんでいた。意識しなくても呼吸ができるように、歩けるように当然だったから、改めて問われると難しい。

「大人たちが言っているだけで、よくわからないんだ」と返し、彼が我ながらナイスアンサーだと思ったのも束の間、

「そうなんだ。顧問に聞いたら分かるかな?」
「それは絶対あかん!」
「あかん、って」
「いや、本当に。絶対ダメ」
「膝に手をついて休むより?」
「絶対ダメ」

 わざわざ引き合いに出すということは、やっぱりわざとだったのか? さきほどの練習でようやく習得したばかりだと言うことを忘れるくらいに、彼は焦っていた。

 顧問に森のことを質問しようなら、クリティカルな連帯責任を課される。誰か一人死んでもおかしくない。それは自分かもしれない。中学生男子は思った瞬間、また身震いした。

「ともかく、絶対ダメだから!」そう言って逃げるように、いや逃げるために急いで教室を出た中学生男子。結局体育館で中学生女子とは再会するのに猛スピードで。先ほど言ったのにも関わらず自分も水筒を忘れて。あんなに午前中走らされたのにも関わらず、全力疾走で。

 頭の中では得体の知れない森が近づいてきているイメージがあって、それから逃げるように体育館へ急いだ。

 昼休みはまだ三十分以上も残っていた。

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