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【レビュー】マイケル・サンデル著『実力も運のうち―能力主義は正義か?―』

10年以上前、『白熱教室』で人気を博したマイケル・サンデルが、最近また注目を浴びている。

現代の先進諸国で自明のものとされている「メリトクラシー」(能力主義)を批判する本を書いたからだ。

邦題は『実力も運のうち』。的確なタイトルだと思う。

社会で成功を収めた人々は、このタイトルを見てイラっとするのではないだろうか。

「サンデルさんよ、あんた馬鹿にしてるのか。俺は子供の頃から血のにじむような努力を重ねてここまで上り詰めたんだ。それを運のおかげだと⁉笑わせるな!俺の成功は自分自身の実力のおかげだ!」みたいな。

だが成功者の皆さん、ちょっと待っていただきたい。
能力主義社会の勝者であるあなたたちこそ、実は無意識のうちに多くの人々を馬鹿にしてきたのではないだろうか。

馬鹿にしてきた対象とは、学歴が不要で収入の高くない仕事に就く人々や、社会の落伍者的な人々のことだ。

サンデルが能力主義を問題視する一番の理由はここにある。

アメリカをはじめ現代の社会では、社会的な成功は当人の実力によって成し遂げられると考えられている。

成功度合いを測る最もわかりやすい指標が富である。
自分の能力や実力に値する報酬を手に入れられるということは、裏を返せば「稼げない」人間は無能だということになる。

つまり、社会の底辺で苦しんでいる人々はそれ相応の能力しかない、いわばダメ人間というレッテルを貼られるのだ。
そして当事者も自らをそのようにみなしてしまう。

こうした態度は、人々から人生に対する肯定感を、もっと言えば人間として尊厳を奪う。
その結果、アメリカでは白人労働者階級を中心に「絶望死」(薬物やアルコールが原因の死や自殺など)が増えているというのだから衝撃的だ。

「機会の平等化」では根本的な解決にならない

能力主義の社会では、自分ではどうすることもできない不運や不利な境遇が極力なくなるよう、「機会の平等」が重視される。

だがサンデルによると、アメリカでは機会の平等が達成されているとは言い難いという。
所得階層下位の家庭出身者が上層に昇り詰められる可能性は非常に低い。

一方、たとえばハーバード大学の学生の3分の2は、所得規模で上位5分の1にあたる家庭の出身者だ。
ようするにスタート地点から違うのである。

また、仮に機会の平等が達成され、階層の流動性が高まったとしても、能力主義のもとでは格差自体が問題視されることはない。

悔しかったら努力して這い上がってみろ、というわけだ。

この状態では、エリート層から底辺層への侮蔑は収まらない。
むしろ機会の平等が達成されるほど、侮蔑の度合いが強まる気配さえある。

こうした侮蔑のまなざしが社会の分断を引き起こし、政治の不安定化を招いているというのが本書の大きなテーマだ。

エリートの心も蝕まれている

なんだか(私自身の若干の嫉妬も込めて?)エリートを糾弾するような書き方になっているかもしれない。
しかし、能力主義のもとでは勝者も傷つきやすい点には注意しなければならない。

アメリカでは特に、エリートになるには学歴が必要だ。そして名門大学に入るには、恐ろしく熾烈な競争を勝ち抜かなければならない。

過度の競争は若者に「成功は自らの努力のおかげ」という意識を植え付けると同時に、抑圧された生活ゆえに憂鬱や不安、怒りの感情ももたらす。
実際に、超エリート層の学生の方が、そうでない学生よりも精神疾患に悩まされることが多いという。

このあたりの記述に、日々ハーバードでエリート学生を教えるサンデルの「親心」が見える気がする。

「給料の安い仕事」を見下すな

サンデルは能力主義そのものをなくせと言っているわけではない。
学歴や収入によって仕事の優劣をつけるべきではない、というのが重要な主張だろう。

ここで政治哲学者ならではの視点が登場する。
仕事による社会への貢献度合いは、「力を注ぐ対象の道徳的・市民的重要性」によって決められるべきだという点だ。

このことを端的に言い表している箇所を引用する。

富豪のカジノ王による社会への貢献には、小児科医のそれとくらべて千倍もの価値があると言い張るのは、熱烈なリバタリアンだけだろう。二〇二〇年に起きたパンデミックのおかげで、多くの人は、(中略)次の点に思いを致さざるをえなくなった。つまり、スーパーマーケットの店員、配送員、在宅医療従事者、その他の必要不可欠だが給料は高くない労働者がいかに重要かということだ。ところが、市場社会では、稼いだお金と共通善への貢献の価値を混同する傾向になかなかあらがえない。

『実力も運のうち』p.304(太字引用者)

この指摘を踏まえると、仕事の重要性に道徳的な尺度を持ち込んだときはじめて、各人の能力や才能に応じた職業選択ができると言えるのではないか。

皆が皆高学歴になれるわけでないし、学歴が必要な高収入の仕事に就けるわけでもない。
むしろ、学歴は必要ないものの、社会生活を支える重要な仕事に就く人が、貧困や侮蔑に苦しまず生きられる社会こそが理想であるに違いない。


おわりに―若干の感想―

今回はマイケル・サンデル『実力も運のうち』を取り上げたが、(学歴や収入を重視するという意味での)能力主義を相対化するのは簡単ではない。

というのも、社会を動かしているエリート層は能力主義の勝ち組であり、エリート層にとって馴染みやすい考え方が社会に流布しやすいからだ。

(具体名は言わないが)昨今の「ビジネスエリート」たちによるオンラインサロンの盛り上がりなどを見ればよくわかる。

こうしたコミュニティを通じて、能力主義はどんどん再生産されていく。

また、優秀な人ほど仕事や勉強ができない人間の気持ちがわからないことも、問題の解決を難しくしている。

鈍くさい人間を見ると、「なんでこんなこともできない(わからない)の!?」と、イライラしてしまうのではないだろうか。

つけ加えると、勤勉な人ほど、怠け者やダメ人間が嫌いだ。

だが言わせてほしい。頭の良さはもちろん、勤勉ささえも実は一種の才能なのではないか。
先天的な才能とまでは言わなくても、少なくとも育った環境は大きく影響するはずだ。

だから、「誰もが努力すれば成功できる」というのはまやかしだろう。
努力自体ができない人もいる事実を無視しているからだ。そしてそれは、おそらく本人のせいではない。

このように考えると、『実力も運のうち』というタイトルはやはり正しいと言える。
サンデルも言うように、成功を収めた人は自らの幸運に感謝し、できることなら謙虚に振る舞ってくれるとありがたい。

ちなみに私は、おそらく「勤勉な人間」と「怠け者」の中間あたりにいる。だから、どちらの気持ちもわかるし、時と場合によって自分自身が両方の立場に移動する。

能力主義の弊害を抑えるためには、私のような「有能と無能」「勤勉と怠惰」の中間あたりにいる中途半端な人間が奮闘する以外にないのではないだろうか。


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