明治維新150年を考える_FotorSha25

日本人は何を得て、何を失ったのか〜『明治維新150年を考える』

◆一色清、姜尚中他著『明治維新150年を考える 「本と新聞の大学」講義録』
出版社:集英社
発売時期:2017年11月

朝日新聞社と集英社による連続講座シリーズ「本と新聞の大学」。本書は第5期の講義を書籍化したものです。講師陣は、民俗学の赤坂憲雄、憲法学の石川健治、財政社会学の井手英策、ノンフィクション作家の澤地久枝、小説家の高橋源一郎、映画監督の行定勲。モデレーターはいつものとおり一色清と姜尚中。

2018年は明治維新から150年にあたります。この歴史上の画期に様々な観点から近代日本の歩みを振り返ろうというのが今回のテーマ。私たちはこの間に何を得て何を失ったのでしょうか──。

赤坂は渡辺京二の『逝きし世の面影』をベースに幕末から明治初頭の日本社会のあり方を再吟味します。渡辺の本は日本を訪れた外国人たちの手記をもとに当時の人びとの暮らしぶりを推察したもの。当時の日本人たちは一様に「幸せで満足そうに見える」という外国人たちの観察はなるほど興味深い。
漁から帰ってきた漁師たちは、老人や働き手のいない人たちにも蔑む様子も見せずに魚を分け与えていたというような具体的な挿話にも事欠きません。そこから今後の指針を導き出そうとする赤坂の着眼には賛否両論ありそうですが、近世日本で広く行なわれていた「相互扶助」には確かに一つのヒントがあるように思われます。

井手の講義は同時期に刊行した『財政から読みとく日本社会』を要約したような内容。経済格差を富裕層から貧困層への単純な分配で解消を目指すのではなく「みなが家族のように助け合う」ような財政政策を構想しているのが特徴です。私自身はあまり賛成できないのですが、財政社会学からの一つの提案として議論の叩き台にはなるでしょう。

行定は同郷(熊本県)の姜との対談という形で登場しています。子供の頃の在日コリアンの同級生との付き合い、彼の死にまつわる思い出から、映画作りの意味を探っていく行定の語りは時に痛切な印象を与えます。在日コリアンを描いた『GO』のような作品が生半可な問題意識から撮られたものでないことがわかり、行定作品への関心もより深まったような気がしました。

石川は「国民主権と天皇制」を考えるにあたって、京城帝国大学で教鞭をとった二人の法学者──清宮四郎、尾高朝雄──にスポットを当てます。朝鮮半島に住む人びとをいかに統制していくかは、法学者にとっても大きな関心の一つであったらしい。専門的で込み入った議論が展開されているので詳細は省きますが、「京城帝国大学における学問が『象徴的行為』に着目する現天皇の論理構成と抜きがたい関係にある」という指摘は私には斬新な視点をもたらしてくれました。戦後も影響力を維持した清宮の学説はそのような背景から生み出されたのです。

澤地はノンフィクション作家らしく自分たちの体験を語り伝えていくことの大切を切々と説きます。家族や親族との関係を述懐するなかで、身内の若者に向けて書いたつもりの本が読まれないことの無念を語っているくだりはほろ苦い読み味ですが、それでも「よそのお孫さんあるいはよそのひ孫さんにあたる人たちに働きかけることはやめません」と力強く締めくくっているのが印象的です。

高橋は明治150年を小説誕生130年と重ね合わせる形で日本の近代史を振り返ります。明治10年代に生まれた小説が短期間で成長した理由は、新聞というメディアの発達が大きかったといいます。漱石も活躍した当時の新聞小説は非常にポピュラーな娯楽的な要素をもっていました。小説のエンタメ化は今に始まったことではなく、黎明期からそうした色合いを強くもっていたのです。そのようなあやしげな小説史を踏まえたうえで、高橋は次のようにいいます。

僕たちは文学や小説を一人一人の作家が書いた個別の作品だと考えがちですが、実は、もうちょっと大きい、時代という生き物、文学という一人の身体を持った者が生み出した作品としてとらえたほうがわかりやすい。(p269)

文学テクストを個人の才覚や世界観に帰すのではなく、時代精神のようなものを想定する考え方は、思考を人間共同の産物と捉えたアントニオ・ネグリ=マイケル・ハートの「マルチチュード」的な認識を想起させもして示唆に富みます。

政府が推進している明治150年の関連施策には批判的な声も少なくありません。政治の側からの一方的な広報宣伝に振り回されないためにも、本書のように様々なアングルから検討を加えることは意義深いことではないでしょうか。

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