見出し画像

私は作家だ。

 私は作家だ。劇作家で詩人だ。こういう話をすると必ずのように「なら、お前は劇作(あるいは詩作)でメシが食えてるのか」というツッコミがある。これは痛烈な一撃である。何故か? 簡単である。実際にメシが食えていないからだ。
 劇作や詩作でその対価を頂いたことはあるが、それは現代の日本で(ある程度)健康な成人男性が一人生きていくために必要な絶対量からは程遠い。その意味で社会的な視点から私を見ると「劇作」と「詩作」が趣味の大学生ということになる。就職をすれば「劇作」と「詩作」が趣味の会社員ということになるだろう。それは全然否定のしようがない完璧な事実である。
 「〜家」「〜人」「〜師」「〜士」というのはそれだけで職業的・専門的な感じがある。そのうえ、職業的に成功していないとそれを名乗ってはいけないような高尚な雰囲気がある。だから、それらの言葉で自己紹介をする人はこの界隈では限られている。
 一方で「物書き」「〜屋さん」という言葉はどうだろう。それらの言葉で自らを名乗っている人に対して「お前はメシが食えているのか?」と問う人は少ない。何故ならば、彼らはほとんど自明にメシが食えていないからだ。「物書き」なんて職業は存在しない。そう呼ぶ人はいるかもしれないけれど存在はしないのだ。存在しない職業を名乗っている人の多くはそれを趣味の延長としてしか認識していない。誤解を避けるために補うが、私はそれを否定しない。
 では実際にある職業の「俳優」はどうだろう。驚くべきことに「俳優」は開かれた言葉なのだ。素人であっても、趣味であっても、金を貰っていなくても皆「俳優」を自称する。
「俳優の○○です。フリーターやってます」
 ごく普通の挨拶だ。演劇に携わったことのない人は驚くかもしれないが、これはごく普通の自己紹介なのだ。つまり俳優は職業であり、職業でない。
 では俳優と作家(劇作家を含む)は別のものなのだろうか? ここから先は私見だが、私は作家も俳優と同じように《職業であって職業でないもの》だと考えている。
 「作家」とは芸術的創作を行うことを生業とする者や、芸術的創作の専門性を認められた者を意味する。生業とは大雑把に言えば職業のことだ。
 しかし、ここで言う「生業」も「専門性」も「芸術的」というのさえ、政治的・社会的に定義できる問題ではないのだ。作家の「生業」はその人間の「生」と「業/カルマ」に根ざしている。したがって、単に金を稼ぐということだけで作家を定義することはできない。
 実際に現代においては傑出した古典の作者として知られている一流の作家について「彼は本当は作家じゃないのじゃないか?」と疑問を呈する人は少ないのに、彼らの中には生前認められなかったり、生活苦で死んでいった者が多くいるのである。そういう事実は彼らの作家としての性質を全く揺るがすことがない。
 作家でまともにメシを食っている人が少なすぎるという事実から、《職業的作家》という言葉さえ発明されているほどである。
 さらに言えば認められるというのも曖昧な言葉である。それは例えば賞を取ることであろうか? あるいはメンターに認められるということであろうか?
 後者においては少なくとも私の可能性は完全に閉ざされている。というのも私のメンターはみな優れた古典の作家たちであったからだ。卓越した才能を有する彼らは皆、すでにこの世にいない。
 前者においてはもう少し希望がある。確かに私は作家を名乗ることに対して、負い目を感じなくて済むようにいくつかの賞に応募しているのだ。けれども、これもやはり本質的ではないと薄々感じている。認められればそれは嬉しい。けれども、それは私の実存≒(生業=「生」+「業/カルマ」)を規定するほどの本質ではないと感じるのである。私は喉から手が出るほど芥川賞が欲しいが、それは憧れであって作家性とは少しズレた話だ。賞をとると沢山の人に私の作品を届けることができる。作品を世の中に送り出し、遺すことができる。けれども、私が作品を提示したいのは批評家でも審査員でもなく、読者でありお客さんなのである。そうして、それは単に提示するということにとどまらない。私の最大のヴィジョンはその向こう側にある。芸術は対話だと私は考えているからだ。私がすでにこの世にいない古典の作者たちをメンターと感じ、時に誰より親しい友人と感じつつ作品を紐解くとき、そこには魂の交信がある。
 そのような瞬間、彼らは私の脳と肉体を介して再生する。これはいささか神話的過ぎるだろうか? しかし、私は彼らに語りかけるのである。
 私は「作家」に憧れてきた。作家になりたいと思ってきたのである。メンターを失った私は自分自身を「作家」と認める勇気を持たねばならない。これからさき、誰かが私を発見してくれるかもしれない。彼は「君は作家だ」というかもしれない。私はその可能性を信じたい。
 しかし、私の本質は私で決める。私の「生」と私の「業/カルマ」は自分で定めるしかない。「君は作家だ」と言われて気づくようではダメだ。
 だからこそ、私は作家なのだ。私は私を作家だと決めたからという、ただそれだけの理由で。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?