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臭悪不食...食に関する心得とにおい

色の惡(あ)しきは食わず。臭(におい)の惡(あ)しきは食わず。飪(じん)を失えるは食わず。時ならざるは食わず。
(郷黨第十、仮名論語一三二・一三三頁)
(孔子は)色や臭いの悪いのは食べられなかった。煮加減のよくない物や季節外れの物は口にされなかった。

 孔子は、色や臭いの悪いもの、煮加減のよくない物や季節外れの物は食べられなかった。
『論語』郷党篇には、冒頭章句の前後に孔子の食に関する心得が記されている。

ご飯がすえて味の変わったのと、魚がくさり肉のくずれたのは食べない。
肉のご馳走が多くても主食のご飯の分量を超えない。
酒には量がないが、乱れて人に迷惑をかけるような飲み方はしない。

冷蔵庫も電子レンジも無い二五〇〇年前であるから、衛生面からの配慮もある。

これらの言句は、孔子の食に対する嗜好ではあるが養生訓でもある。
特に高齢にある我々は、主食副食のバランスや酒の嗜み方を見習いたいものである。

ところで、串田孫一の随筆『生の歓喜』に
「鼻は、眼や耳ほどの芸術をうみ出さなかったという人がいる」
とあり、なるほどと納得した。

確かに、観る絵画や聴く音楽には優れた芸術作品が多くあり、視覚と聴覚へ同時に訴えかける芸術も多い。
しかし嗅ぐ芸術はと考えると、直ぐには出てこない。

御香や香水を思い浮かべるが、音楽や絵画ほど一般的ではない。

視覚や聴覚に比べて、嗅覚器官で感じたものを精確に表現する言葉は少なく、消えてつかめない香りを人に伝えることは難しい。

音の調べや色調があっても、「香りの調べ」がない所以である。

『論語』でも同じで、「臭(におい)」は冒頭の一章句のみであり、「嗅(か)ぐ」を含めても二章句しか登場しない。
孔子が「詩に興(おこ)り、禮(れい)に立ち、樂(がく)に成る」(泰伯篇、一〇三頁)と言われる音楽の「楽」は十六章句もあり、「歌」の五章句や「瑟(ひつ)(大琴)」の四章等々、楽曲や楽器の章句を含めると更に多くなる。

観る芸術の「絵」は一章句であるが、「朱」「紫」「紺」「黄」等の色は豊かである。
もっとも「色」の字そのものは二十三章句あるが、顔色や色欲の意味であるので除いている。

「匂(におい)」の文字は、日本で作られた国字である。
国字は凡そ一五〇字と言われ、峠(とうげ)・榊(さかき)・畑(はたけ)・笹(ささ)・躾(しつけ)等がよく遣われている。

「匂」は、韵(イン)の右側の字(旁(つくり))を書きかえた国字で、
よい響きの意からよい香りの意となった(『漢字源』)、
匀(イン)は中国で「ととのう」の意味を表すが、それを日本で「におい」の意味に用いた上、文字の一部ニを「ニホヒ」のヒに改めた(『新漢語林』)、とある。

日本では、いいにおいに「匂い」を用い、
いやなにおいを「臭い」と遣い分ける。
平安時代中期ころから用いられている。
それ故に『源氏物語』第四十二巻の「匂宮(にほふみや)」が、「臭宮」であっては断じていけないのである。

まだ孫が「じぃじの匂いがする」と懐に飛び込んでくる。
いずれ「じぃじの臭い」となるかもしれないが、孫とはいつまでも「論語の匂う」会話をしたいものである。

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