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志仁無悪...憎む心をもたない。それは、悪い事をしないことよりも難しい。

「子曰(のたま)わく、苟(いやし)くも仁(じん)に志(こころざ)せば、惡(にく)むこと無きなり。」
(里仁第四・仮名論語三八頁)
「かりそめにも仁に志したならば、人を嫌ったり、人を拒んだりすることはない。」

 この章句を「苟(まこと)に仁に志せば、惡(あく)無きなり」と読み下すのが、一般的である。

真に仁を志したならば、過ちを犯すことがあっても、悪事をはたらくことはない、と言う解釈である。

魏の何晏(かあん)や梁の皇侃(おうがん)、
南宋の朱熹(しゅき)、
江戸中期の荻生(おぎゅう)徂徠(そらい)も、
悪の字を善悪の悪「アク」と読み、
あしきことわるいことの意味としている。

仏教や他の宗教観からしても、悪い事をしない、と読む方が説き易い。

しかし清末の劉宝楠(りゅうほうなん)は、
ここの悪と言う字を好悪の悪「オ(旧ヲ)」と読み、
にくむこときらうことの意味であるとした。
慧眼である。

漢字は、意味によって読み(字音)が違うことがある。
例えば省と言う字は、かえりみる意味では「セイ」と読み、
はぶくという意味では「ショウ」と読む。

それと同じ類で、伊與田覺先生の解釈は、にくむである。

私も、「苟(いやし)くも仁に志せば、惡(にく)むこと無きなり」の読み下し方が、きわめて孔子らしい言葉であると思っている。

憎む心をもたないというのは、悪い事をしないということよりも、難しいからである。

人間誰しも、好き嫌いの感情を持ってしまう。
道元禅師が言われた「花は哀惜(あいじゃく)にちり、草は棄嫌(きけん)におふるのみなり」である。
花も草も、ただ散り、ただ生きている。
好悪は人間の勝手な感情である。

嫌いという感情は、ややもすれば差別感情へと繋がる。

始めは、何かちょっと違うという違和感、
何となく心地よくないという不快感である。

それが嫌悪感となり、憎悪となり、
恐怖心へと変わり、
排斥、迫害へとモンスターのように膨れ上がる。

日本人は、森羅万象を畏敬し、神を敬い、仏を敬うという信仰をもったことによって、知らず知らずのうちに多様性を受容する素地が育まれた。

自然環境が湿潤な東アジアの民族は、日本人も含め、異なる価値観の存在に対して、寛容な民族ではないかと思っている。

ところが現在の世界の潮流は、逆に向かっている。

異文化・異教徒・異民族(人種)に対して、非寛容になり、嫌悪の感情を持つようになった。

過激派はイスラム教徒の若者を、この感情で巧みに誘い、テロへと向かわせた。
英国がEU離脱を決定したのも、この感情に押されて、EUの基本理念「移動の自由」を制限したいがためであった。
欧州各国では、流れ込む難民への不安や嫌悪に付け入る形で、極右政党が躍進している。

孔子の生きた時代よりも、人類は退化しているのだろうか。

「苟(いやし)くも仁に志せば、惡(にく)むこと無きなり」を噛み締めたい。

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