生きること、学ぶこと
記憶力はなぜ鍛えなければならないのか?
アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」を読み、考える。
「記憶力の鍛え方」についての記述があり、記憶力は、記憶しておく保管庫の良し悪しの問題ではないという考えに惹かれる。
これを考えるために、精神と物質の時間的なスケールでの位置付けが検討される。両者は、共にシンクロして生成されるものである。最前線に物質があり、全体を支えるものとして精神がある。現在とは、その最前線の物質の活動であり、精神はその全体を支えるものとして過去に存在する。そうしてみると、現在とは、限りなく薄いものである。常に変化しているので、実在しないに等しい。
過去を忘れて現在に固執して生きる日本人の生き方(ライフ・プロスペクツ)とは、実在しないもの、常に変化しつつあるものにこだわって生きていることになる。今を生きるのに精一杯になってしまう、疲れる生き方であり、哲学が育たない生き方である。現在は物質生成の活動の最前線であり、精神がイマージュを形作るには、実在する過去を記憶によって整理し直す必要がある。それをしない日本人は本当に生きていることにはならない。
過去はそれ自体が継続しているものである。「純粋記憶」と命名する。
過去は、すでに過ぎ去ったものではなく、どんどん前進的に生成されていくものである。
「記憶力」とは保存する機能であるが、それは保管場所があるということではない。知覚したものを行使する力、組織化や体系化する力、それらの集合としてイマージュかする力の機能を示す。
脳は、記憶やイマージョを蓄えてはいないのである。ガストン・バシュラールの想像力とは歪められた記憶を解放して再構築するものという定義は、まさに過去の実在である「純粋記憶」を行使して再組織化するものであろう。
夢を見る行為は、記憶力を鍛えているのだろうか。