考えることがつらくなったら「瞑想不足」のサイン
考えることってほとんどの人は出来ない。
人は大人になると、知識や技術に重きを置き、大半の行動を習慣に身を任せて、考えることをしなくなる。
「そんなことない!自分は考えて行動してる!」と大人たちは内心ムキになるけれど。
大人はほとんど無意識に歯を磨いたり、ほとんど無意識に「風呂に入らなきゃ」と思ったり、ほとんど無意識にテレビをつける。小学生の頃に親から言われて覚えたことや、目的があってやろうと思っていたことが理由も忘れて行動するようになる。
それは習慣化の恩恵でもあるし、そのおかげで安定した平穏な生活を送ることができる。テレビから入ってくる知識は重要だったりもするし、毎日歯を磨いて損はない。
けれど僕ら大人はそんなことに気を取られて、考える時間が減っていることをそろそろ思い出さなきゃいけない。
長年の経験やカンで培った貴重な判断力を、そんなことを一旦忘れて「この判断は正しいのだろうか 」「この行動は今でも最善手なのか」と、たまには考え直さなきゃいけない。
今ある知識を練り直して、この知識や技術を使って何ができるか、何をすべきかを考える。
それが瞑想だ。大人になるとその回数が減っている。
子供の頃は瞑想をしていた
僕らが子供のころはどうでもいいことばかり考えていた。横断歩道の白線を踏んで渡るとか、窓の水滴に絵を描くだとか。
それが瞑想の時間だった。何かに没頭して、集中してそのことを考える。どんな行動をしたら面白いか、どんなものを作ったら面白いかと。
ほかの人が思いつかないようなことをして、ほかの人が作らないようなものを作って人を笑わせたり驚かせたり。
ゲームをするときも、ただ強いキャラを作ったりクリアするんじゃなくてその世界にある「誰も気づいていなさそうな隠しアイテムを見つける」「誰も作ったことないような変わった育て方でキャラクターを作る」そんなことをしていたんじゃないだろうか。
だから今ゲームをすると「なんだか最近のゲームはやることが決まっててつまらないぞ?昔のゲームはもっと隠し要素ややり込み要素があって面白かったんだけどなぁ」なんて風に思ってしまう。変わったのはゲームのほうじゃなく自分だと言うのに。
考えることがつらい
最近は僕も考えることが嫌になってきた。もちろん人よりは頭がいいつもりだし、調べ物もよくする方だと思っている。それでも、昔の自分に比べてたらとてもとても敵わない。昔の僕は一日中ネットサーフィンをしていても全く飽きることがなかった変人レベルの情報オタクだった。目に入った情報耳から聞いた情報体で感じ取った感覚全て気になった瞬間にスマホやタブレットを開く。ネットを見ていたら永遠に知らないことが出てくるので、それについてまた調べる...と言うことをしていると学校の授業の時間や家に返ってゲームをする時間なんかはすぐになくなってしまっていた。
通勤や通学や授業や仕事の時間は調べ物をしていれば苦でもなんでもなかった。ただ調べ物をできる時間があるのであれば、どんな状況でも同じように思案を巡らせることができる。ちょっと調べて、それについて考えながら仕事をする、気になったらちょっとスマホで調べて、また考えながら仕事をする。時間は勝手に溶けていった。あれは瞑想だった。
今では仕事は早く終わらせたいし、人を笑わせるアイデアを考えながら会話をするのが面倒だし、イラストを描くときも技法ばかりが頭を支配した状態で描いている。
何か暇になった時、何をしようかと考えることが嫌で、とりあえずゲームを起動してしまう習慣ができた。この習慣にしばらくの間悩まされた。
昔はゲームすらも瞑想の時間で、とりあえずゲームをしていれば画期的なアイデアや調べたい情報が見つかっていたものだが、今ゲームをしてしまったら目の前の勝敗に一喜一憂してくだらない勝負を楽しんでいるだけだ。
「ああ大人になってしまったんだな」と思う。
瞑想不足の問題
仕事場が家であると、あまりにも自由でやりたいこともやるべきこともたくさんある。家事も仕事もしなければいけないし、ゲームもTwitterもイラストもやりたいしそれらがいつでもできる。
そんな状況で何も考えずにとりあえずゲームを開いてしまうのは明らかに選択ミスだ。仕事や家事をするべきだと分かっているのに、「正しい選択」よりも「すぐに始められるやりたいこと」を選んでしまう。これが瞑想不足の問題だ。
そして考えることがつらくなった、これも深刻な問題だ。何か調べ物をするときに、とりあえずYoutube検索をしてしまう。自分から答えを探すのではなく、他人に答えを語ってもらおうという魂胆だ。
結局なかなか答えは得られない上にそのままダラダラとYoutubeは見るしでまったくどうしてこんな消費者人間になってしまったのかと嫌気がする。
こういう時には瞑想をするように、何らかの方法を探して必死に頭を回すように心がけている。基本的には「何もできない」ことが頭を回す手段だ。
noteを書いているときなんかはとてもよく頭が回っている。十分に瞑想に入り、集中して作業に勤しむことができている。そこには人が瞑想に入るための仕組みと理由がしっかりと存在していて、僕は作業をする時には必ず瞑想をするように心がけるようになった。
瞑想に入るためのスイッチ
何も「座禅を組み目を閉じ、集中しろ」なんてことは言わない。
瞑想に入るためにとても簡単な方法がある。万人に使えるかは分からないが、僕が普段使っている方法ならいくつか紹介できる。大半の凡人ならこれで十分集中モードに入れるだろう。
五感に制限をかけるという方法だ。
人は五感を制限すると集中する
ヘッドホンをして音楽を聴く。目をどこか一点に集中させる。深呼吸をする。湯船に浸かる。口に飴玉を入れる。
どれも想像のつく方法だろう。耳を塞げば目が補って活動する。目を固定すれば脳が集中する。身体活動を制限して深呼吸すれば頭が冴える。そんなこんなで瞑想に入るのは簡単だ。
五感に制限をかけて不自由な環境を作る。そうすると人は瞑想...というか集中するようになる。
僕は今ヘッドホンで音楽を聴いて書いてているが、恐ろしくなるほどに集中がよく続く。ノイズキャンセリングヘッドホンで耳を塞いだ状態がちょうど作業もしやすくて非常に捗る。まあ少しありきたりな方法ではあるが、仕組みとしてこの五感を制限するというのは理にかなっている。
何か自分の行動や感覚に制限がかかればなんでもいい。タイムリミットを決めたり罰則やルールを決めるでもいい。どんな方法であれ制限をかけるという状況は人の行動原理になり得る。
不自由こそが人を考えさせる。
人は自由を求める生き物だ。ひとまず「生きなければならない」と言う根本的な欲求を満たした後、次に求める欲求は自由欲に当たる。食料確保や生存のための家の確保などが最優先だ。それが達成したなら次は自分の望みが叶う世界を求める。誰も食料さえあれば奴隷でいいなんて言う人はいないだろう。
人は奴隷であることを嫌い、そこから抜け出したり不自由を解決する方法を探すようになる。
例えば学校や会社に入った瞬間は奴隷そのものだ。そこに自分の知らない社会ルールがあり、まずはそのルールの元で行動することを強いられる。そうすると、人はその時間を少しでも楽にする方法を考えるようになる。仕事をしている間に、「〇〇をやったら怒られだろうか」「こうやった方が簡単なのに」と思うことを試して、何度も怒られる。
そんなこんなでいろいろなことを試して、段々とその会社の中でできることとできないことが分かってくる。やってはいけないことについてはその理由がわかるようになり、その会社の中で振る舞うべき最善手がわかってくる。
そこにたどり着いた人は自由だ。多少なりの不満があろうとも、なんとなくいつものように同じ最前手を繰り返していれば少しばかり不自由な仕事の時間が終わる。その程度の不自由さで得られる思案なんてものは「帰ったら〇〇をしよう」くらいの発想にまでなってしまう。長年会社に勤めた自由勤め人は考えることが減ってしまう。
自由すぎると仕事が捗らない
子供の頃、学校の宿題を家でやるのは得意じゃなかった人が多いだろう。今でも同じように家というのは集中することのない時間を過ごし続ける場所になっているはずだ。
だからカフェに行ってコーヒーを飲みながらパソコンを開くと仕事が捗る。本屋で立ち読みしているときの方が本を長く読める。
不自由な環境を作り、瞑想に入ることで人は作業に頭を使って取り組むことができるようになる。
常識は集中のためにある。
常識は嫌われる。不自由の象徴であり、一見特に意味もなく定められているように見えるルールが多い。
けれど大半の常識は数十年数百年続く「こうすることが最前手だ」というルールの集大成だ。常識に従ったところでパッと目にみえるような効果はない。けれどそのルールを作った人にはそのルールを作るだけの理由があって生み出され、それが長年に渡って成功してきたルールなのだ。
その常識が正しいという仕組みを完璧に理解することは僕にはできない。けれど、ここまで話した「不自由」を万人共通に与えるという仕組みはその成功原理の一つに数えられると考える。
考える不自由人が正しい社会を作り世を作り、平和を作ってきたと考えられる。
行動意識を与えるための常識
例えば宗教なんかはその信者たちにとって共通となる常識がある。お正月に初詣に行ったり、家の中に神棚を飾り綺麗に手入れして飾りをしたり、お守りを買ってきて車に取り付けたり。
実際のところ生活に影響に与えるようなことではないかもしれない。けれど、それをすることによって冬季でも外出する習慣になったり神棚だけでなく家全体を綺麗に保つようになったり、常日頃交通安全に気を使うようになったりという恩恵がある。
これを神様の力だと語るのが宗教だが、実際のところの成功の仕組みはそんなものだ。善となる正しい行動を、「神様だから」という絶対ルールに仕立て上げて強制する。
これを「神様なんていないよ!」と切り捨てるのはその本質がわかっていない。
まあ理屈など説明しなくてもいいように神様という話にはなっているのだが。
まとめ:大人になって瞑想が不足したら
特にやることもなく日々を無駄に過ごしてしまっている独身の大人と、家庭を持ち会社に通いそれなりに生活を営んでいる大人との違いは常識的かどうかである程度判別がつくものだ。
自由に行動し続けた人間は堕落する。ただその状況に甘んじて、自由や快適さを求めるための努力を忘れて...はいないだろうが、常識人に比べたら「最善な生き方」という視点では自由人の方が正しく生きれていないだろう。
とはいえ自ら不自由に身を置くのは嫌だ。だから、不自由になるのは自分が何か意識的に行動しようと思った時だけでいい。
仕事に行こうと思った時にスーツを着て歯を磨いてカバンを用意して、、、というようなことを、その代わりとなるような行動をする。
風呂に入ってシャワーを浴びたり、掃除や洗濯などの家事をしたり、ヘッドホンをして音楽を聴くのでもいい。そんな考えるためのスイッチとなる行動が瞑想だ。
大人になると考える時間は減り、精神的だったり金銭的だったりには自由が増える。その時間にテレビやゲームやYoutubeを見て無駄な時間を過ごさないように、「何が正しい生活か」に従って生きるようにすると時間の過ごし方が少し正しい方向に変わるかもしれない。