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期待とは


私はあまり期待という言葉が好きではない。

というのも、まず言葉そのものが「期して待つ」、つまりそうなることを望んで待つという意味で、受動的だからだ。期待している人間はなにもしないで傍観しているわけだ。

そして、第二に大概の期待する人間は勝手に失望する。

期待してたのに残念だ
なぜやらなかったんだ、君には失望したよ

言い方は様々だが、なぜか勝手に失望する。



この話を親にした時、親からは「期待してもらえるなんて嬉しいことじゃないか。お前はひねくれてる」と言われた。


確かに人によっては喜ばしいことかもしれない。

期待されるということはそれだけ能力や技術を高く評価されているということでもあるから。


だが、私は少なくとも違う。

私は私の能力を自分のために使いたいし、そのために向上させようと努力している。決してその人のためではない。




期待とは、端的に言ってしまえば、他人の無責任な願望や欲望である。実際に、冒頭の画像のように、辞書的意味としてそう書かれている。


あの人はこれができるからあれをやってほしい。


彼はあれが得意だからきっとこうするだろう。


人にとってはそれが励みになったり、モチベーションにつながったりする。しかし、プレッシャーに感じる人だっている。私の場合はそれどころか、そんな無責任なものを押し付けるなと思っていたりする。


相手の能力について思うことや心の中で評価することは自由だが、それを相手に押し付けるのは間違いだろう。

その人の能力をあなたが持っていてあなたが使うのならまだしも、それはあなたのものではない。


ひねくれている、変わっている、それがどうした。

それは個性であって普通に当てはまらないだけだ。




それでも大学在学中、大学受験生(高校3年生)に英語を教えていたときは思わず「期待」していると言いそうになった。それだけ、この言葉が日常に溢れているということだ。


だが、できるだけ使いたくない。

だから、私はただ傍観するだけじゃない、助けが必要なら喜んで手を貸す、という意味で「応援する」と言ったり。


あなたがその壁を突破できるだけの力を持っていることは知っている、今直接力になることはできないが、頑張ってほしいという思いを込めて「信じてる」という言葉を使うようにしていた。


私が教えたのだからできるに決まっていると冗談で言うことはあっても、心の中では本人の努力が結果に現れることを祈っていた。だからこそ、期待などというこちらの欲望を押し付けないで、彼ら自身が自分の力に誇りを持って試験に挑めるように言葉を選んでいた。


言葉というのはそれだけの力があるのだと私は確信している。伝え方、書き方ひとつで鼓舞することができるのだ。


そういう人に私はなれると信じている。





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