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こうして私は、noteをはじめた。



30歳になったら、きっとアタシ死んじゃうから、今日から自叙伝を書いていこうと思います。

( 14歳 memeの中学生日記より引用 )


自叙伝





14歳の頃に書いた日記が出てきた。

あの時そんなふうに思っていたなんて、自分でも思い出せないくらいに、その刹那的な思いとか感情の部分を、もう忘れてしまっていた。

だから。今この瞬間の思いもきっと、時が経てば無くなっちゃうんだって思った。

感覚とか、行動力とか、若気の至りとか、青臭さとか。

きっと、全部なくなっちゃうから。

腐ってた10代も、バチクソに楽しかった20代も、この広大なネットの海に全部ホルマリン漬けして流し込もう。

こうして私は、noteを始めた。



2020年6月29日。


0歳、
阪神淡路大震災+地下鉄サリン事件=



そもそも私が生まれた平成6年という時代は、最低だった。記憶しているわけではないけれど、歴史がそれを物語ってる。

晴れて生まれた0歳の冬には阪神・淡路大震災が起こり、春ももうすぐそこという頃に地下鉄サリン事件が起こった。

生まれてきた世界としては散々な序章だ。




1-5歳、
ただ生きるというだけの、無条件幸福



所謂、鍵っ子だった。

「今日のビデオは何がいい?」そう言って父がビデオデッキにビデオをセットすると、「あぁ、お留守番だな」とわかるくらいの年齢だった。何がいい、と言われても、ジブリ作品とアルプスの少女ハイジシリーズしかない。今はもう、見すぎて擦り切れてしまっているかもしれない。それほどに、過言ではなく徳間書店に育てられた。

保育園の送り迎えは、いつも朝1番最初に園に着き、お迎えは夕方1番遅くだった。小学生の頃は家に「ただいま」と帰っても誰もいなかった。

ひとりの時間が、多かった。





6-10歳、
21世紀を生きる覚悟



人は万能ではない。

怪我をするし、病気にもなる。それに、いつかは必ず死んでしまう。

そのことを知った最初の原体験が、あの日の出来事だった。


だけど、梅崎春生が言ったように
「どのみち死なねばならぬなら、 私は、納得して死にたいのだ」そういうことなんだと思います。


ここで使っているmeme(メメ)は、ペンネームです。

memento moriから借りました。
memento moriとは、ラテン語で「いつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句です。

いつかその日が来た時に、納得して死ねるように。

それが例え明日であろうとも、50年後であろうとも。

メメントモリ。

これが私の、名前の由来。

そして、後にペンネーム“meme”として、言葉を綴ることとなる。


【コラム】
10代の「自分」と「他人」



『わたしのともだち』


そういうタイトルで書いた作文が、小学生のとき、何かのコンクールで賞をとった。

昔から『友達』が、人生最重要事項のクソ上の方に存在していたんだと思う。

人には人の乳酸菌、人には人の重要事項が存在するように、それが「お金」の人もいれば「仕事」の人もいれば「推し活」の人もいれば「彼氏」の人もいれば「バンド」の人もいる中で、私の中で圧倒的ポジを占める“大切な何か”は「友達」だった。


友達が好き。

その感覚が、ずっとあった。


圧倒的友達感が強くなりすぎて、好きな人にも友達としか思って貰えないムーブがあるということには薄々気付いているけれど、まぁ、そうだとしても、一生友達でいられるんだったら、それもそれかなぁと思い始められてはいる。


かと言って、人間関係ひたすら順風満帆号に乗っていたのかと言われれば、そういうわけでもない。

何かにつけて「人間嫌い!」が口癖だった過去をくぐり抜けてきてはいるし、ヴィジュアル系ロックバンド追っかけて、安全ピン刺さった服着てライブハウスで頭振っていたようなガキンチョ時代もあって、結構、本腰を入れて、人間のことが嫌いな時期は、確かに存在していた。

そんな私がどうやって「人間」を知っていったのか、と言われれば、どこかでずっとあった「命ってなんで大切なんだろう」っていう、幼少期の時にひたすらに投げかけられ続けた宮崎駿からの問いへの答え探しみたいなものだったのかもしれない。

10代、何もかも嫌んなってロックバンドに救われて、ライブハウスにばかり通っていたあの頃の自分は、まだ、何も知らなかった。

19歳、10代最後にこのままじゃダメだってアメリカに行った。この時にきっぱり腹を括って、看護師になるんだって心決めて、帰国後に、リハビリ農園という場所に1人で通い詰めた。勿論仕事じゃないからお金なんて一切入らなかったけれど、麻痺がある身体だと、どんなことがしづらいのかとか、どんな時に誰かの手を借りたいと思うのかとか、逆にどんなことは自分でやり遂げたいと思うのかとか、一人一人と野菜を育てて、実感として腑に落ちた部分があった。

収穫祭の時に、彼らが太鼓の演奏を見せてくれた。敢えて麻痺側の手でバチを握りしめて、あるいは固定して、一生懸命に、リハビリの成果を見せてくれた。あの心に響く演奏を、私は一生忘れられないんだと思う。「不自由さ」ってこっちが決めつけた線引きなんだってことを教えてもらったんだ。額に汗をタラタラ浮かべながら、歯を食いしばってバチで太鼓を叩くあの演奏が、心の奥底で、ずっと鳴ってるんだ。



14歳、
音楽との出会い





19歳、
そして世界を知る



21-24歳、
モンドピース「本当のともだち」




25-28歳、
コロナ禍の上京







【コラム】
20代の「自分」と「他人」




都会で3年、過ごしてみて分かった。

20代前半、生涯の友と出会って、相変わらずお金は無かったけれど、人生で一番楽しい時間を過ごした。遅れてきた青春だった。あの時間を過ごすために、これまでのくすぶっていた過去があったんだと本気で思えるくらい、バチクソに楽しい時間を過ごした。

20代後半、楽しいだけの時間にちゃんとケリをつけて、あの時の仲間が全員一斉に、それぞれ全く別の、新たなスタート地点に立った。それが良かったんだと思う。「誰がどう見ても、お前らは“類は友を呼ぶ”って言葉通りだよ」前の職場を辞める時に、上司に言われたあの言葉が、今でも私の中の誇りだ。アイツらに出会えていなければ、私はこうして文章を書くこともなかったし、東京を生きようとすることもなかった。どれだけ背中を押されて、そして救われたかわからない。

25歳、思い切って転職して、それを機に都心に住んで、普通に生きていたら絶対に出会わなかったような、日本の経済を回してきた150人くらいの人たちと、心からの対峙をした。本当にいろんな人と「人生について」とか「命について」を本気で、真っ向から考えて、話し合う時間をもった。

その反動もあって、生きてきた歴史の一頁一頁を文章に綴るようになった。その中で、生涯の憧れであったリリーさんと、2度、お話しする好機に恵まれた。ラジオで私のことを話題に出してくれたり「君、文才があるんだから、続けた方がいいよ」なんて天地がひっくり返るような言葉を下さって、そのまま書き続けていたら、ある本に、少しだけ、文章が載ったりした。そういう、あのまま長野にいたら、絶対に起こりもしなかったようなことを、ここ東京という街は、たくさん経験させてくれたんだ。

新しい趣味としてギターを始めて、人前で、2回も演奏する機会をいただいた。もう十分、本当に十分、いっぱいいっぱい、十分すぎるくらいに、都会を全力で謳歌した。「東京に来る」ってこういうことか!って分かった。

ただボケェーッと生きていたら飲み込まれるであろう都会の荒波で、どうやったら次に来る良い波をよめるか、楽しく乗れるか、どうしたら今使っているボード自体がより波に乗りやすいものになるか、どうやったら今着ているスイムウェアが適したものになるか、考えて考えて、選択して、その上で、周りにいる大人達に大いに頼りに頼って、いっぱいいろんなこと教えて貰って、ありがたく全方位からのアドバイスをそのまま受け取って、この大都会【東京】を生きた。

最高の、20代の特権だった。


都会への憧れを昇華するには、十分な時間を過ごせたと思う。この間、誕生日を迎え29歳になった。20代が、残り一年になった。東京に来れて良かった。月並みだけれど、心から、本当にそう思う。東京を知れてよかった。「東京を生きる人間」になれたこと、生涯の財産だと思えている。

もう、十分に、満足したんだ。


29歳になって思う。


29にもなって、なお「誕生日おめでとう」と連絡をくれる人は、大体がもう、一生大切にしたいなと思える奴らばかりで、そんな奴らと一緒に、良い歳の重ね方をしていきたいなと思えていて、ようやっと、地に足が着いた、今、そんな感じなんだ。

UVERworldの歌詞にあるんだ。

今愛してくれてる人にもっと深く愛されるだけで良い
でも その生き方貫けば 何も思ってくれなかった人たちにも愛されちゃうかもな


この歌詞がストンと腑に落ちる生き方が出来て、今こうして20代を終えようとしていることが、本当に何よりも、幸せなことなんだと思うんだよ。


田舎には本気で愛したいと思える大切な家族がいて、生きてきた過程で「コイツらに胸張って言えないことだけはしない」って本気で思える友達が出来て、大好きな音楽があって、心に響く何本かの映画も知って。29歳、自分の整理をちゃんとしてさ、30代は、新しいライフステージとやらを、歩んでいきたいなぁと思えたんだ。ようやく。

そして何より、私は大自然の中で生まれ育って、この海山川空土が無かったら満たされなくて、大自然のかおりや、風の通り道、鳥のさえずり、かえるの合唱、月の満ち欠け、そんなものと共に生きることそのものが、私を構成する一部分だなぁって、改めて、そうも思った。


なんかこれからの人生はさ、自然や動物たちのもとへ、たくさん遊びに行くために、時間やお金を使えればいいなぁ、なんて思う。

大好きな海や草原に、たくさん行きたい。

野生のイルカをぽけーっと眺めたり、時にはあの大きなクジラが大海原でジャンプする姿を見に行ったり、タイにゾウに会いに行ってみたり、旅行の目的をそういう風にして、動物達にたくさん会いに行きたいな。正直、有名な観光スポットとかテーマパークとかも、まぁ楽しいとは思うんだけれど、この世界中にある自然の素敵さというか、まだ見たことのない景色とか場所に行ってみることのほうに、好奇心が動くというか、心からのワクワクを感じるから。だから、そんな場所に、一緒に行きたいって言ってくれる旦那さんや子供ができたら、そんな新しい家族を、自分の生涯をかけて、愛したいなぁと思う。そんな人を見つけて、30代は、ちゃんと、家族になりたいって思う。


好き勝手生きてきた20代までの時間。

この時間は、何よりもかけがえのない大切な時間だった。間違いなく、そう思う。

次の30代も、かけがえのない時間になるといいんだけれど、そろそろ1人じゃなくって、誰かとその道を歩いていきたい。

そんなことを、初めて、ちゃんと考えた、20代最後のはじまりです。


14歳の自分よ、30代も、きっと死んじゃわないで、生きるからね。



noteを読んでくださる皆さまへ

noteを書き始めて、3年ほどが経ちました。
いただいたコメントなど、全てを読ませていただいております。また、マガジンへの追加、記事でのご紹介、サポートなどを通してかけていただくあたたかな言葉にも、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。

現在、私は、Instagram、TikTok、X、YouTube等の宣伝媒体をすべて終了しています。それでも、ぽつりぽつりと読んでくださる方がいるおかげで、1000人を超える方がフォローし続けて下さっていること、嬉しく思っております。

未だ、noteのアルゴリズムをあまり理解できておらず、私が書いた記事がどんな方にサジェストされ、巡り合わせていただけているのか分からないのですが、そのご縁に感謝しながら、それでもやっぱり自分本位に、“誰かのため”や“人に向けて”ではなく、自分が書きたい文字の続きだけを、書いてきました。

私は前提として、基本的には、お仕事目的に文章を書いている訳ではありません。しかしながら、このような駄文にも「noteの文章のこの部分を一部掲載させていただけませんか」等、企業さまからお問い合わせをいただくことが度々あります。それらに関しては、ご相談させていただいた上で、お引き受けさせていただいております。

逆に、企業様がリリースしたアプリや商品ページ等紹介のご依頼をいただくことがございます。宣伝効果が上がるようなSNSはすべて終了しておりますので、そちらに関してはお断りさせていただいております。文字で稼げるだなんて到底思えないけれど、出来ることがあれば、一歩ずつ。まずは自分の本職を丁寧に。次の30代を、やり切った20代の上に、重ねていけるといいなと、思っております。


ベネッセ様より




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