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”時間”とは銀幕のスターなのです。

ご存知の通りワタクシは、17時に仕事が終わると料理の支度をしてからその物を食べるのです。ついでに、身支度を整えたかと思えばair podsを耳に設置して、近所の多摩川と名の付くただの川へ散歩に行く毎日がこのところ続いているわけでございます。

如何でしょう。優雅な物だとは思いませんか?さては、最もゆたかな暮らしなんて物でありましょうか。奢りはよくありません。許されないのです。

18時を回る夕刻にふと流行りである、john lennonのOh My Loveを聴いておりました。(時に流行りとは言っても、これはAmazonで購入した”誰でもタイムマシンキット”なる物を使って作成したタイムマシンで、Paulが交通事故で死亡したのかどうかを確認するべく1966年に戻りそこから8年ばかりリヴァプールで暮らした頃の名残かもしれません。Paulが死んだのは真実かどうか?とさぞかし、聞きたいことでしょうが、そうはいかないことだとは、お判りでしょうから割愛する次第であります。)

一先ずこれをお聞きなさい。それから本筋に戻るつもりです。

「おかえりなさい」とでも言って差し上げることとしましょう。この曲は最愛の人との出会いと、愛を知った自分が何を感じ、何を気づくのかという歌詞でできております。これは果たしてmy loverだけに言えることでしょうか?ワタクシ自身最愛等といった恋愛的事象とは感覚的な妥協点でしかないと思えるのです。果たして真実の愛などを発掘できる瞬間が、人間様にあるとでもいうのでしょうか。答えは”No”です。”いいえ”なのです。”ブルータスお前もか!”なのです。人間という者がいかに愛を語らおうとも真実の愛などに到達できる者ではないのです。(と筆者は思うわけでございます。)しかしながら真実の愛について語るのであれば別の記事で取り上げることにしましょう。「なぜなのだ?」ですって?それは、ワタクシが今ここで”カタカタ”と暗闇で二つ折りの板に施された鍵盤を必死に弾かなくても済むからなのです。

さては皆さまグダグダ言ってなんかいないで、本筋に戻りたいのでしょう。そうしたらメニューボタンから「戻る」を押すことをお勧めします。決して「アイテム」からエスケープロープなんて使用するのはおやめなすってくださいな。皆さんが今本筋に戻りたいかどうかをアンケートしてみました。

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どうやら読者の皆さんの多くは日本国の御方の様ですね。そんなことはさておき、戻るとしましょう。

ワタクシには父親と母親がおります。父親は海を見るのが好きなのです。カメラと坂本龍馬を愛しております。母親は破壊的な好奇心と森への帰巣本能に溢れた人間様でありますが、今回は父親(以下表記は彼とします。)から幼いワタクシに向けたエピソードをご紹介しましょう。彼もまたワタクシと同様john lennonが大好きなのであります。好んで聴くのです。猫に小判とは言わんばかりに小判なのです。しかしながら鬼に金棒とはまた違い、それはそれで感慨深い部分なのです。ワタクシがまだ9歳そこらの幼子であった時分、彼はワタクシにこう言いました。

「何か壁にぶち当たったのか?悩んでいるのか?だが、頑張るな。頑張ろうとするな。」

人生のチュートリアルをプレイ中のワタクシにとっては、突然レベル45の呪文を覚えろと言われんばかりに混乱という満員電車に詰め込まれたのです。しかしながら彼は、しばしばワタクシに対してこの様な難問ばかりを食わしてきたものでした。そんな呪文には続きが御座います。

彼曰く、彼が学生の時分。時は80年代であります。ベイシティーローラーズやルービックキューブが若者の関心を掻っ攫っておった時分の事でございます。彼には仲のいい友人が御座いました。その友人がうつ病なる人間様特融の病に侵されるしまったというのです。一方”時間”なんてものは人間様が決めた概念であるにも関わらず、人間様の事情なんてちっとも考えずに、クールに進んでいくのです。彼と彼の友人はどうすることもできないままこの”過ぎていく時間”の中で髪の毛だけが伸びていきました。そんなある日のことでした。彼の友人が少しばかり体調をよくしたとの知らせを受け、彼は飛んで友人宅へと伸びた髪を風に泳がせて向かいました。そこには少しばかり体調を良くした友人の姿。嘸かし嬉しかったことか、彼らはしばらく話したかった事を語り、呑みに行こうという算段を立てたのでした。時は夕刻19時頃でしょうか。彼ら含む数人の姿は、この世の疲れとヘイトとゴシップの吹き荒れる”居酒屋”という場所にあったのでした。そこでも彼らは語らい、酒を頬張り、焼き櫛なんて物をそれはそれはおいしそうな具合で平らげたのです。頬を朱色に染め、財宝の眠る島を発見した日の夜の海賊団の様に楽しんだ彼らにも平等に解散の時間がやってきたのです。それは突然なのです。誰かが切り出すのにも関わらず突然で不平等なのです。それほどに”時間”という物は、例えるならば、ヤマタノオロチに生贄に捧げられる村の幼子の様に無慈悲な物なのです。

幾分か楽しく過ごし、アルコホールが彼らを染めた夜。彼は楽しさのあまり友人にある言葉をかけてしまうのです。

彼「がんばれよ!」
彼の友人「おう!」

それは彼にとっては応援するための花でした。魔王退治に行く勇者へのキスでした。はたまた飲み明かす前の胃薬のつもりでした。しかしそれは一瞬でレベル2万の魔王に変わったのです。はたまた90°のアルコホールへと変わったのです。翌週、彼の別の友人(うつ病である彼の友人の相談役であり、仲の良い存在)から電話が来たのです。内容は彼の友人が亡くなったことを伝える物でした。彼は立ち尽くします。”時間”はここでも止まっても、戻ってもくれません。残酷なのです。諸行無常なのです。そして彼は電話をよこした彼の別の友人の元へと脚を進めました。この時彼は”時間”に対して考えを改める様、懇願しましたがそうはいきませんでした。

呼び出した友人の元へと着くと、当該友人に突然右頬を強く打たれました。彼は何が何だかわかってなんかおりませんでしたが、仕方がないことだと思ったのです。友人も突然の出来事に混乱しているのだ、悲しみの矛先が行方不明なのだ、と。しかしそれはあまりにも都合の良い思惑だったのです。

「あんたは言ってはいけないことを言ったんだ。あんたは昨日、彼に頑張れといったんだ。頑張ってはいけない人に、頑張ろうとすることから解放された人に、そう言ったんだ。それがどれだけ残酷で、どれだけ本人を苦しめたのかわかるのか。」

亡くなった友人がとった行動が、彼(父親)の昨夜(きよ)の言動や行動の因果なのか、そんなことどうでもよかったのです。友人は自ら今後頑張れるかもしれない権利を返上したのです。そして彼は自分を責めました。考えました。向き合ったのです。小学生の時分に書く当番の日誌なんかとはわけが違うのです。そこには文字数の制限などある訳でもなく、3時間目の自主学習の時間の喧嘩についての反省などというお題は無いのです。彼は何年も何年も今日(こんにち)に至るまで向き合ったのでした。その間、彼は伸びる髪を幾度となく間引き、装飾を変え、万の事ことに対する考え方を変え、廊下の天井にある裸電球を幾百回も取り換えたのでございました。そしてワタクシが生きていく権利を与えられ、酸素を与えられ、母乳を与えられ、9歳になったのです。

そうです。あの”時間”の話です。”時間”はまたしても残酷に過ぎていくのです。またしても”時間”は、文字通り時の人となったのです。銀幕のスターなのです。

そして彼は父なのです。しかし、ワタクシにとって欠けてはならない父なのです。ワタクシも何れ父となるのやもしれません。そして”時間”は今日もワタクシを”そう”させようとサービス残業をし続けておるのです。

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