人間様のゆたかさとかいうやつ。
note、始めました。
ワタクシは学がある訳でなく、senseや文才もないのです。現実、国語や現文・作文等の成績表ではave 3の世界線からの参戦であります。因みに参戦という言葉はあまり好きではありませんし、好んで使わない言葉の一つですが、ご存知の通り"語彙力”がありませんので、6ページしかない脳内広辞苑から引用した次第です。
然しながら書くことは昔から好きなのかもしれません。それは奇抜なファッションで着飾ることとそう違いはないのかもしれません。とりわけ”ですます調”での作文を忌み嫌っておりましたが、不思議とで”すます調”で書いてしまうのです。
前置きはこの程度とし本題へと移るとしましょう。
先ず初めにワタクシは、はなからこの記事をたくさんの人に見てほしいとか、沢山の”ハート”?が欲しいとか評価されたい言ったわけでもありません。もっとも企業案件(金銭的な目的)ではそうそうないのです。それは単に#ゆたかさってなんだろう という#(ハッシュタグ)の記事を数点拝読した事が始まりでした。もの申そうということなのです。
そうです。ワタクシは皆さまが忌み嫌うカウンターカルチャーなのです。ロックです。hip hopです。hippieやkkkなのかもしれません。しかしながら皆様含めこの世界は常にカウンターカルチャーの存在によって埋め尽くされてきた物なのであります。
24年間の内ヘイトやアンチ、ご意見番の”ご意見”、批判、混沌、カオスを見ない日は現代では無いくらい、ありとあらゆる在り物を見る”兵器”があるのです。6帖そこらのこの部屋には2歩歩けばあらゆる世界とつながり、混沌に仲間入りできる素晴らしい兵器がいろんな形をして存在しているのです。それは四角い黒い板の様な物であり、二つ折りの薄い板、はたまた手のひらに収まるような薄い板なのです。この板たちこそが人類史上最も最悪で、最高の兵器かと思われますが、いかがでしょうか。そしてワタクシもまた兵器の一端を担う人間様であることこそこの文章のコアの部分でしょう。人間様というものは、本来考えるはずの脳みそと抑制する為の倫理観を無理やり手渡され、お役所よろしく面倒くさい申請と印鑑なんてしてもいないのに一生この権利(義務)を課せられるのです。
さておき、人間様という兵器は本来userであった者かと存じます。本来兵器である媒体を利用・使用する側の在り物でございました。それがどうでしょう。見事に人間様の脳みそという者は利用され使用される兵器の一端になり下がりました。「そうは思わない。」、「そんなのただの思い込み」、「言い過ぎだ!このニヒリストめ」etc...ありとあらゆる”ご意見”が、公開buttonを押す以前にワタクシがコーヒーを飲みながら、この史上最悪とも言える文章を構成している段階から聞こえてくるようです。もっともこの予言は現実の物となるでしょうが。
裁判長。上記の通りです。一体この世の中からこの”ご意見”が消えてほしい等どの口がほざいているのでしょうか。幾分ワタクシの小さな脳では計り知れない程の有象無象がいるのです。
一ついい例を交えてお話しすることにしましょう。
それは、音楽と政治(的利用)です。何百年間という月日この話題は戦争と同じくらい語り明かされ、人間様が何万人も死に、思想や文化が滅んでまいりました。何も滅ぶことがBADとは申しておりません。最も批評は大事であります。そうしてすべての物は進化してまいりましたよって。しかしながら近年ではこうした批評やそれに追随した建設的な議論は無くなりました。(2020年6月現在、ワタクシの住むこの日本では)人間様の多くは内容ではなく”かたち”に注目をし、プロセスよりも結果がすべての世の中となりました。COVID19の中での星野源氏の作品に絡んだ騒動に関してはいい例であるといえるのではないでしょうか。マスクマン首相の取った行動にある真の意味を理解しようとする人間様もおりましたが、大半の人間様はそうではありません。最もワタクシなどは無関心な事象にすぎませんでしたが、それもまた人間様ゆえの奢りなのかもしれません。
本題に戻しましょう。
この騒動について深く掘るということはしません。ただひたすらに申し上げたいのは批判する対象が違うことのみです。幸せなことにこの法治国家”日本”では法の下に表現の自由が保障されております。作家は好きなことにインクを消費し、アーティストは己のfeeling一つでアゲインストを表現します。同様に才が無いと自ら努力することからエスケープした大半の人間様たちはSNSで何かに対し無い文才を使い、このように対象となる何かに”ご意見”等を発信することもできます。
ではなぜ音楽家はだめなのでしょう?
歌詞に政治的内容を含んだ曲を出すことはなぜ批判されるのでしょう?
一人間様のご意見に過ぎないのではないでしょうか?
なぜ歌詞の内容ではなく、歌詞を書いたこと、曲をメディアで歌ったことを批判されるのでしょうか?
不思議で涙も止まらないありさまであります。これはもっとも、今玉ねぎをみじん切りにしていることが要因の一つでしょうが。詰まるところ、内容なんか見ちゃいないのです。ゆたかさなんてものは内容を見ないことに他ならないこのことなのです。見たい物を(見たい様に)見て、聞きたいことを(聞きたい様に)聞く、これこそがゆたかさを得るというそれなのです。ゆたかであると感じる瞬間、それはきっとゆたかでありたい様に感じた瞬間なのです。飽くなき戦争であります。玉ねぎのみじん切りよろしく、もう何が何だかわかりませんが、ワタクシが言いたいのはもっと人間様は人間らしくならないと本当のゆたかさなんてものはつかめません。今感じるゆたかさという物は偽物なのです。ということだけです。
アーティストが何かを批判する歌を書き、オーディエンスは歌詞の内容を真っ向から批判する。これこそが真のゆたかさなのです。議論なのです。我々人間はすでに本当ゆたかさを持っているはずなのです。
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