見出し画像

ささど「花火とその余熱」後編


 関野遥と僕は小学一年生からの幼馴染だ。だから僕たちは今までずっと一緒に生きてきたし、これからも離れることなく一緒にありつづける。少なくとも今年の三月まで、僕はそう信じていた。それは今よりももっと自然な確信で、決して切実な祈りなどではなかった。そして、その確信が突如として形を大きく変えてしまうなんて、考えたことはなかった。
 三月十一日、芽吹き始めた桜の下で、遥は僕にこう言った。
「今年の大晦日に死のうと思うの」
 原因はすぐに思い当たった。僕だから知っていることだった。僕たちのみが共有する常識だった。
 僕たちは家族に恵まれていなかったのだ。
 幼少期の僕たちを結び付けたのは恋心でも慈悲でもなく、悲嘆すべき同族意識だ。小学校で初めてその顔を合わせた瞬間、僕たちはそれぞれが同質の存在であることを察知した。他者のことを理解することは叶わないが、これだけは確信できる。当時の僕たちは相似だった。関野遥は鏡の奥の僕自身だったのだ。
 僕は両親にとって空気であり、遥は両親にとって醜悪な怪物だった。僕が両親に話しかけたとき、僕は例外なく無視された。遥が両親に話しかけたとき、遥は例外なく殴られた。僕たちのどちらもが、人生における原体験としての愛を享受していなかった。だからこそ、僕たちは即座に同族であると察知できた。
 出会ってからすぐに、僕たちは互いの癒えることのない傷を慰めあった。僕の傷は遥にしか見ることのできないものだった。遥の傷は誰だって見られるものだったが、彼女は僕にしかそれを見せなかった。
 僕たちの世界には僕たちしかいない。僕と遥だけがこの世界の人間で、周りのそれらは人の形をした何かでしかない。僕にとって遥だけが、心の実在を確信できる人間だった。だからこそ、僕は遥と常に一緒にいた。そして、それは遥にとっても同様だったのだと思う。
 ――僕には遥しかいないし、遥には僕しかいない。
 この関係がどうしようもなく不健全であることは自明の理だ。「共依存」と称されてしまえばそれで終わる代物で、実質としてもこれは一般的な「共依存」と違わないのだろう。築かれるべき関係でないことくらい、僕にだってわかっている。けれども、僕たちは健全な関係を構築するための能力を持ち合わせていなかったし、それが可能な環境にもいなかった。そのような残酷な空間こそが、僕たちの生きる世界の全てだったのだ。
 幼少期の話はもう十分だ。家庭環境は一切の変容を見せないし、僕たちの関係が正の属性を帯びていくわけでもない。全てが変わらないまま、時に背中を押されるだけ。ただ一つ変わったことと言えば、高校入学と同時に僕が自活を始めたということくらいだ。
 このような背景があったからこそ、遥の発言が何に起因するものなのかは明白だった。何も改善していないのだから当然のことだ。また、僕らの間には常にそれを意識させる冷たい風が吹き抜けていたし、それについての神妙な会話も稀ではなかった。
 しかし、三月の発言が不可解を内包しているのも確かだった。僕にそれを宣言したこと。約九ヶ月間の猶予を設定したこと。このような合理的でない不可解に何らかの意図があるのは明らかだったが、僕はその正体を察することができなかった。一連の彼女の言動に対する思考を放棄していたのが原因だろう。自身のことのように理解できてしまうからこそ、僕はその思考を上澄みでとどめたのだ。深海に光は届かない。
 僕にできることは一つだけだった。彼女に残されたモラトリアムをできる限り共に生きることだ。彼女の死を受け入れたわけではない。むしろ、僕のその行動は切なる願いを孕んでいた。僕は何とかして彼女を現世へと留めたかったのだ。僕には遥しかいなかったから。
 作戦を大幅に変更したのは九月の事だった。存在の強調は失敗に終わった。僕と一緒にいるときの遥はいつもと一片の変化も見せなかった。だから、僕の不在を強調することにしたのだ。受験を理由に、僕は遥から距離を取った。また、「受験」は未来の確実な存在を示すのにとても都合が良い。遥に未来を空想させたならば。遥が並んで歩いていく僕たちを脳裏に見たならば。そのような希望に思いを馳せつづけた。
 そして、苦しみの三ヶ月間を経て、今に至る。結果は明白だ。彼女は変わらなかった。関野遥が未来に目を向けることは一度もなかった。
 
 
 
「塔也くんはさ、きっとやっていけるよ」
「遥がいてこその人生なんだ」
 なりふり構っていられない。僕は今、最愛の人を失おうとしているのだ。感情の全てを吐き出してでも、僕は彼女を止めなくてはならない。これがエゴイズムであることを否定するつもりはない。遥のことを理解しているからこそ、彼女が最善と考える行動を尊重するべきなのだろう。けれども、遥がいない世界ほど恐ろしいものはない。
「遥がどうしても死ぬっていうのなら、僕はどんな手を使ってでも止めるさ」
「塔也くんにそんなことはできないよ。私を説得することも、私に実力を行使することも。だって、塔也くんは私のことを知っているんだもの」
 遥は笑った。
「塔也くんはもう一人暮らしもできてるでしょう? もう、塔也くんを縛っているのは私だけなの。だから、死ぬの」
「なんで死を選ぶ必要がある?」
「私は一人では生きていけないもの。あの人たちは私を手放そうとしない。もしそれが叶ったとしても、私は塔也くん無しで生きていく基盤がない。私と塔也くんが健全な関係を築けるわけもない。こうするしかない。結局不幸になるのなら、こうしたい」
 これこそが、僕の拒絶した深海の景色だった。知る機会を放棄した、知りたくなかった彼女の根幹。やはり、そこに光など差していない。僕の肩を後悔が抱く。もっと早くこれを理解していたならば、という取り戻せない空想に襲われる。
 彼女の手は、未だ何よりも温かい。しかし、冬の厳しい自然がその温かさを奪おうとしている。意識のリソースを触覚に割くことにするが、その試みは遥の言葉を原因として失敗した。
「私ね、塔也くんのことが好き。塔也くんと一緒に過ごす時間は幸せなの」
 直接にその言葉を聞いたのは初めてのことだった。体が自分のものでなくなったような浮遊感が訪れて、そして、一瞬それは力を失った。
「思い出になるのは結果じゃなくて過程だよ。死んだとしても、最期の一年が幸せであればそれでいいの。そして、私はとても幸せだった」
 僕の五指から、彼女の小さな手はするりと抜けていった。
 遥がガードレールをまたぎ、暗闇の中の断崖にその身をさらす。そして、軽やかにこちらに翻る。
「危ないぞ」
「ね。こんなところから落ちたら死んじゃう」
「戻ってきてくれ。僕には遥しかいないんだ」
「それは今だけだよ。二人だけの世界なんて、塔也くんならすぐに変えられる」
 僕は今、どんな顔をしているのだろう。少なくとも、遥のように笑えてはいないだろう。本来ならば慰めになる言葉も、喜びから笑みをこぼしてしまうであろう言葉も、今は僕を優しい気持ちにはしてくれない。
「私は知ってるよ。塔也くんの優しいところ。塔也くんの強いところ。塔也くんのかっこいいところ。全部、知ってる」
「僕だって、遥のことをなんでも知ってるさ。遥は明るくて、僕よりも優しくて強いんだ。僕が生きていけるなら、遥も生きていける」
「私は一人にはなれない」
 遥の表情が曇った気がした。けれどそれが気のせいだったかのように、遥の表情は平生のものに戻っていく。そのきっかけは彼女の手許の腕時計だった。
「どうしてここじゃないといけなかったか、わかる?」
 見当がつかない。ここは僕たちに縁のある土地ではないし、なにか特性があるというわけでもない。
「八月の花火、残念だったね」
 遥の言葉が脈絡を失っていく。心を支配する焦りが増大していき、僕自身を乗っ取っていく。
「来年は見よう。花火、好きだものな」
「その必要はないよ。思い残しはなくなるもの」
 その言葉と時を同じくして、揺らめく光の筋が天に向かっていった。笛を吹くような間の抜けた音が暗闇を伝播する。
「知らなかったでしょ。今年ね、年明けと同時に花火があがるの」
 空に花弁が広がった。赤いような、黄色いような、そんな形容しがたい美しさを帯びた光が、僕の心に深い影を落とす。冷たく尖った風が、僕の心の空洞を吹き抜ける。
 最大の幸福に抱擁されたような、そんな遥の笑顔が絢爛な花火と重なっていた。やがて、力を失った花弁は自由落下を始める。
 
「あけましておめでとう、塔也くん」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?