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幸せになるために生まれてきた

 今日のタイトル、大げさかよっ!って感じだけど。

 誰かのために働くことが好きな私にとって、忘れてはいけないというか
時々、思い出す必要があるフレーズだな、と思って、今日はタイトルにしてみた。

 誰かのために働く、というと、良い人のように感じるかもしれないけど(実際、良い人なんです・笑)、それが私の性に合ってるというか、やっぱり生まれてきて、周囲に育てられたからには恩返しがしたいっていうのがあって。
 まあ、そう思って動くこと自体は、たぶん良いも悪いもないはず。でも、去年、自分の身に降りかかった“適応障害(過剰適応)”のことを考えると、やっぱり当時は「自分が幸せになるために生まれてきた」という、これを見失っていたなと思う。

 自分の心身を犠牲にしてまで何かに没頭するというのは、自分の人生を生きる意味から逸れてしまっているわけで、軌道修正が必要な状態だってことなんだ。

 昨日の朝、夫が私の顔を眺めているので、理由を尋ねてみると夫はこんな風に答えた。

 いや~しみじみ幸せやなと思って。

 今のところ、夫婦して定職に就いてなくて、預金を切り崩しながら生活していて、まだ先のこともちゃんと決まっていないから、客観的に見たら、どこが幸せなんだよって感じなんだけど、それでもそばにいる人が幸せを感じて生きているということ、これに勝る幸せはないよねって思った。

 長年、必死で働いてきた職場で、去年の春~暮れにかけて、私は適応障害、夫はうつ状態になっていって、精神的に双子のような私たちはとても暗くてしんどいトンネルを通ってきたけど、だからこそ今どんな形であれ、ここで幸せという実感をこの手に取り戻せたということが、奇跡のように感じられる。

 これから二人で始める仕事が社会の役に立つことも大事だけれど、二人が幸せでいられるような形にしていこう。そこを忘れて利益とか使命とか責任なんかに絡めとられないようにしたい。二人、あるいは二人のうちのどちらかがつらくなってきたら、それは私たちの仕事を見直す時だということを忘れないでいたい。

 お金は大事。でも、お金は削ることができる。ぜいたくを求めなければ。お金といのちだったら、いのち削って働くよりも、お金を削って生きるほうがいい。少なくともすでに50代になった私たちにとっては、無理して稼いでぜいたくするという選択肢はもう不要なのだ。

 過剰適応で、ワーカーホリックになってしまう傾向が強めの自分に、これからも何度も言い聞かせないといけない。

 幸せになるために生まれてきたんだよ。

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