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”自分磨き”と”恋愛”。どう捉えるか。


誰かのために、自分を磨こう。

あの人を振り向かせたくって、なんとか頑張って可愛くなろう。
もっと”いい人”と出会えるように、今から美しくなっておこう。
…振ったアイツを、見返したいからイメチェンしよう。
キュートなあの子の隣に写る私、見劣りせずに映えるようにしてみよう。



自分磨きはいつだって、誰かのためにするものだと思ってきた。

…ただ、最終的に喜ぶのは自分だってこともあって、自分のためにしていることとも捉えられるとは思う。
誰かのために自分を磨いて、その人が喜んで、一周回って自分を好きになれる。または、自分にはないものを持った憧れの人が自分を好きになってくれた(認めてくれた)ことで、やっと自分を肯定できるのもある。

…と、こんなふうに。



でも。

「自分を磨けたかどうか」、すなわち自分磨きの”結果”を評価する主語は、いつだって自分以外の誰かだった。委ねていた。


だから、

自分磨きは、自分のためにするものだよ。

とよく言われているのを耳にしても、納得できない自分がいた。確かに、最終的には自分のためにすることだとしても、その通過点には「誰かのために」という言葉が必要不可欠だったから、どうしても、どこか腑に落ちなかった。

・・・恋愛においては、特に。


でも最近、友人とお互いの恋愛を語っていた時に、ふと気づいたことがあった。大きく2つある。


1つ。

「このレベルまで自分を磨いたら、このレベルにいい人と出会える」
といったルールは存在しないこと。


2つ。

自分磨きは、魅力的な人と付き合うための手段というよりかは、
「将来自分のする恋愛(人間関係)の”納得度”を高めるためのもの」だということ。


自分に自信がない。自分が嫌い。
それを少しでも埋めるために、自分とはかけ離れた魅力を感じる相手に追いつこうとする。だから、自分磨きが必要で、そのために頑張る。


そういう恋愛のカタチが原因で、蛙化現象にも悩まされてきた自分は、恋愛とかいろんな人間関係において、とにかく自分にも相手にも納得できずで人付き合いが苦手だった。また、関係が破滅した時に、自分のことはさらに嫌いになった。

でも、それはベースの部分の捉え方の問題だったのだと、やっと分かった気がするのだ。


「こんな自分と、一緒にいてくれる恋人(友達も然り)の言葉は、本当だろうか。私なんかで、いいのだろうか。」


そう思うことが多かったけれど、


「今自分は、自分を少しでも好きになるために、自分を磨いている。または、磨いてきた。だから、自分も少しは好きだし、自分に関わってくれる人たちはもっと好きだ。」


そう捉えてみる。そう捉えたときに初めて、目の前の相手や環境を、やっと心から受け入れられるようになるんじゃないか?と思う。


だから、今は自分を磨く。理想を語るよりも、新しい恋を見つけるよりも、自分を少しでも好きになるために。
そうやっていく中で、いま目の前にいる人を少しでももっと好きになりたい。大切にしていたい。愛していたい。



それが私の、”自分磨き”の新たなる定義だ。





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