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「同情されたい訳じゃないけど、他人事にもされたくない気持ち」を燃やして。


安定がほしい、か。
自分は変化がすき。刺激が欲しい。
けどまあ、安定を第一にする人は、それはそれでいいと思うよ。人それぞれだし。

少し突き放すような感じでバッサリ言われると、私の心はぐらりと揺れる。
「確かにそうだね」と口にした裏で、怒りのような、悲しみのような、悔しいような気持ちが嵐を起こして、心がグチャグチャになる。


相手に対して非があるわけじゃない。ただ、見えない壁ができた感じがするから。


私だって変化が好き。でもそれ以前に、変化を下支える「安定」は誰にとっても自分事のはず。けど、他人事みたいだな…と心がモヤつくのである。


ここでいう「安定」とは

マズローの欲求5段階説における

・生理的欲求(食欲・睡眠欲など)
・安全の欲求(身体的な安全性・経済的安定性、よい健康状態)

とする。

私は恵まれていて、「食欲」や「経済的安定性」は恐らく十分に満たせている方だと思う。この時点で、もの凄く幸せ者だ。

けれど、以前はあったはずの「よい健康状態」「身体的な安全性」を満たせなくなったことに今は不満を抱いている。以前は当たり前のごとく心・身体を土台にして、変化を求め続けてこれた。なのに、この土台が崩れたせいで、色んな可能性を諦めることになってしまった。当たり前だと思っていたものに足をすくわれたり、プラスを求めた結果マイナスになったのは凄く悔しかった。し、変化を求める度に足枷になった。


人間は生もの

だからこそ、誰だって健康や安定が失われる可能性がある。もちろん、健康の基準・生まれつきの体質が異なるのは承知だ。でも、”可哀想”という同情や、”考えすぎというか心配症だよね”という目を向けられると、つい他人事じゃないんだよと言い返したくなる。

でもこれは、安定できてた頃の自分には抱けなかった感情なのも確か。だからやっぱり失ってからじゃないと気づけないものなのかな、とも思う。
人は自分の足元に目を向けて限界を知るより、空に無限に広がっている可能性を考える方がワクワクするしずっと楽しい。それも、もちろん知ってるから。


でもこうやって、安定と変化の狭間でフラフラ揺れることができるのも、悔しい思いをメラメラ燃やせるのも、ある意味で私の特権なのかなと思う。

安定や保守を選んで、「向上心がない」「自分に甘えている」「怠けている」という印象を与えたくはない。かといって、他人に事情を話すと心配をかけてしまうし、偏見を持たれ信用されなくなってしまうのも嫌。
安定を捨てて、変化を求める選択がしたい。でも、誰かを巻き込んで迷惑をかけて人が離れたり、もっと可能性を狭めてしまうのも嫌。

あまり人には言いたくないような事情があったり、同じような気持ちを奥に抱えて変化を恐れている人たちがいるのだとしたら。踏み出したい一歩を、踏み出せないのだとしたら。
そういう人たちが思い切って変化を求めた時、転んで大けがをしないよう、やわらかい砂を敷いてあげたい。
または、早く回復する心・身体にしていくお手伝いがしたい。


そして「結果的には弱くてよかったじゃんか!」とか「病気だって豆腐メンタルだって自分の立派なアイデンティティだよね!」と、マイナスなものが本当はプラスだったと証明してみたいのだと思う。




そんな想いで

書いた配属希望届を、昨日提出したばかりの私。


若干ハラハラしながら、noteを久々に長々と綴ってしまいました。

もちろん何年か経ってから、そういう事業に関わるのも悪くないとも思うけれど・・・希望、通りますように。

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