脱フォロー・フォロワー社会に向けて

 今の世の中では、一人一人が自分に帰属する意見を表明せずに、自分が気に入った意見やコンセプトを持つ集団の一員になったり、それを掲げる意見者へのフォローを表明する風潮が強い。個人がそれぞれ直接自分の言葉で声を上げ、意見どうしをすり合わせ洗練し合うのではなく、言語感覚が突出した代弁者(作家やアイドルや起業家、アルファツイッタラーなどのネット有名人)を、自分の言葉を使って意見を言う事ができないその他の人々がフォローする。まるで御神輿の上に立たせるかのように、一部の人を祭り上げる。それとは違う意見を持つ人たちも、その意見を代弁する人を祭り上げる。そうして結果的に多数の“無言の人”と少数の“代弁者”によって構成される村があちこちに作られる。このフォロー・フォロワー関係があらゆる場所にモザイク状に点在しているのが現代社会だ。

 ちなみに、そのフォロー文化の延長線上に、就職もあるんじゃないだろうか。個人それぞれが人生や社会に対する意見を持つのではなく、“この考えなら受け入れても良い”と思える会社を選んでいる。コンセプトや社説になど目を通さず、立地や事業内容、ブランド、給料だけで会社を選ぶ人もいるかもしれない。しかし創業者や経営者の想いは、それら全てに反映される。だからなんとなく社員の立ち振る舞いが気に入って就職したり、なんとなくオフィスの雰囲気が気に入って面接を受けた時点で既に、あるコンセプトを内包する集団に帰属する事を決めていることになる。

 今の世の中では、と前置きしてしまったが、では近代以前の方が市民それぞれが自分の意見を表明し、それが共同体の発展に貢献していたのかというとそんな事はないだろう。戦前は国家により国民の意思など封じられてきたし、戦後も日本に染み付いた“目上の人は絶対”という価値観は中々拭えなかった。現代にはTwitterやブログなどのネットツールに代表される、個人がそれぞれの意見を表明するインフラが整いつつある。だから表向きには「今は誰もが自分の意見を発信出来る時代だ」と言う事が出来る。

 また、自分が気に入った意見やコンセプトを内包する派閥への帰属を表明すること自体は問題ではない。社会を変える為には個人が強い意見を持つだけでは足りない。その意見を基にした仕組みが組織力を発揮して既存の組織の仕組みに打ち勝たない限り、実際には何も変わらない。ある青年がマルクスの本に感動しただけで一国の政治体制が変わるなんてことはない。その青年が協力者を募り、人が集まり、考えをぶつけ合い結束し、旧体制と戦った結果、組織改革が起こるのだ。その過程で誰かが集団の代表として矢面に立つことは必要になるだろうし、誰かがカリスマ性を発揮し、英雄として祭り上げられることもあるかもしれない。個人的には、その役割をAIが担う日が来たら面白いと思うけど、まだ遠いだろう。

 だから問題は、誰かを代弁者として立てることよりも、個人それぞれが自分に帰属する意見を表明し合う機会が少ないことや、それによってそれぞれの意見の完成度を高め合う方法論が確立されていないことにある。例えば日本人はあまり人類共通の社会問題の話をしない。居酒屋などでもその話は避けられる。興味が全く無いという訳では無いだろう。家に返ってテレビを付ける。たまたま放送されていたドキュメンタリーをなんとなく聞いていると、画面にはゴミ山で生活する少女や溶けゆく氷河が映し出される。「なんだかわからないけれど、このままではヤバイのでは?」と思う。こんなことは、誰しも一度は経験した事があるだろう。でも、一体どこで、誰とそれについて話せばいいのだろう?友達に言っても退屈されるし、仕事の休憩中にする話でもない。そうやって誰とも意見交換をしないから自分の考えがブラッシュアップされず、いざ選挙などでコミットを迫られたとき、あるいは今のコロナウイルスのようや不測の事態に陥った際に、稚拙な意見をもとにして行動するしかなくなる。

 僕も、最近になるまで環境問題や政治などの人類共通の問題について全く興味が無かった。でも本屋で平積みにされていた“サピエンス全史”を読み、人類がフィクションを共有することで文明を発展させてきたという視点に興奮し、それをきっかけにしてそのほかのものにも興味が湧いた。誰かとそれについて語りたい。でも自分、別に専門家でもないし...と思って辞めた。あと、単純にめんどくさいし。そんな人は至るところにいるだろう。でも民主主義においては豊富な知識と模範的な責任意識、職業人としての信頼と実績を兼ね備えた専門家と、中途半端な知識と生半可な責任意識を持ったその辺のフリーターが“一票”という同じ権利を持っているのだから、パンピーが立場を気にせず語れる場所がもっとあってもよいのではないかと、私は思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?