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真木共働学舎

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へたれ大学生だった私が真木へ行き、帰ってくるまでの記録。(一部茨城県での苦悩もあり)
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人にはそれぞれ自分の世界がある。その中にいるときほど心地よいものはないのだなぁと思ったのだった。

人にはそれぞれ自分の世界がある。その中にいるときほど心地よいものはないのだなぁと思ったのだった。

よく覚えていないのだが、その日のすべての野良仕事の終わりを告げる板木の音は、私の耳には入らなかったのだと思う。

見よう見まね、夢中で鍬をふるっていた私は、ふと顔を上げるとメンバーがぞろぞろと屋敷の方向へ引き上げて行くのが目に入った。おそらく誰かに声を掛けられたのだとも思うが、何が何やらわからないままに重い身体を引きずるようにして、後に続いた。

ちなみに板木とは叩いて合図するための板である。アラ

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人が住むには厳しすぎる、そんな場所に、その人たちは居た。

人が住むには厳しすぎる、そんな場所に、その人たちは居た。

2つ目の峠をどのように越えたのか、記憶が無い。

崩れ落ちるように座り込んで休憩したのち、小川にかかる細い橋(というよりただの板)を渡り、当然のように目の前に現れる壁のような上り坂を見たところまでは何とか思い出せる。

その時に私が抱いた感想はどんなにがんばっても浮かんでこない。当時の私は意識を持たないことで自分の正気を保とうとしたのかもしれない。

次に覚えているのは、集落が見えた時だ。

左側

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私が思うに、荷上げは義務であり、信頼であり、承認なのだ。

私が思うに、荷上げは義務であり、信頼であり、承認なのだ。

真木には様々な仕事がある。農作業、鶏の世話、山羊の世話が主なものだが、その他にも炊事、洗濯(これは1,2週間に1度だが)、掃除(当番制)ももちろんある。壊れた道具や家具があれば自分たちで直すし、時には家までも直す(なんと茅葺屋根の修理もする。日本全国、10人いるかいないかといわれている茅葺屋根職人さんが、真木にいるのだ!ちなみに私も手伝ったことがあり、その経験は一生の宝ものである)。

様々な

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私は自分の身体のコントロールを9割9分9厘、失った。

私は自分の身体のコントロールを9割9分9厘、失った。

峠を2つ越えるのだ、と聞いていた。

すると、私は1つ目の峠に達したということだ。

先へと続く道は、なんと、下り坂になっているではないか!

下る、ということは、登る、という行為よりも楽に違いない。だって、重力に逆らわないのだから。20㎏の荷物も手伝って、なんなら気持ちよく進めるのではないか?

自分自身の内側の宇宙に引きずりこまれていた私の眼前に、ひとすじの希望の光が差した。

そして、あっけ

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だんだんと、私は私の中へ堕ちていった。

だんだんと、私は私の中へ堕ちていった。

ザッザッという足音。

異常に荒い自分の息遣い。

破裂しそうな心臓の鼓動。

土で汚れたスニーカーと地面。

たったそれだけの世界。

それだけの世界で、私は生きていた。

止まりたい。苦しくて。

でも、止まったところで?誰かが私を負ぶって運んでくれるとでも?

止まったところで。

ただ、時間が過ぎて。そして、しばらくして、

再び歩き出すだけではないか。

また苦しむだけ。それだけのこと。

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その苦しみから逃れる方法は、さらに苦しむことだけだという事実が私の背に覆いかぶさる。

その苦しみから逃れる方法は、さらに苦しむことだけだという事実が私の背に覆いかぶさる。

Oさんは背負子に萱(かや)を4,5束括り付けると、裕に30kgはあるそれをいとも簡単に背負い(なぜ重さがわかるかと言うと、後日自分も運んだため)、私の方をじっと見て目で「もういいか?」と聞いてきた。

私はこれからの困難を想い、絶望感に見舞われた。自信なさげに「私体力ないので、ゆっくり、お願いします」と言った。その言葉に彼がどう反応したかは忘れたが、ともかく、私たちは出発した。

ここで少し、後に

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こうして私の試練が幕を開けた。

こうして私の試練が幕を開けた。

2007年6月のその日、私は朝7時30分新宿発の、JR特急あずさ3号南小谷行きに乗り、11時45分に終点南小谷駅に着いた。

出発して30分もしないうちにMから励ましと応援のメッセージが届き、ドキドキしながらもありがたく読み、そしてまたドキドキしていた。

移動時間が相当ある上に、だいぶ後半になってから列車の切り離しに伴う席の移動があるだけで、それまで乗り換えの一切ない、素晴らしい条件なのにも関わ

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その時の私の心境はバンジージャンプをする前のように余裕がなかった。

その時の私の心境はバンジージャンプをする前のように余裕がなかった。

「ごめんね。色々聞いたけど結局どういうところなのか、まだイマイチつかめなくてさ……」

「そうだよね。うんうん、わかるよ。私もそうだったから」

私と親友のMは大学生でも気軽に入れるレストランでパスタを食べ、食後のコーヒーをそれぞれ飲んでいるところだった。

ただ私は、自分のコーヒーカップを横にずらし、正面にノートを広げて気もそぞろに細かいことまで逐一メモしているという状況であり、食後のひとときを

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「3問くらいしか」

「3問くらいしか」

私が真木共働学舎に行こうと決意したのは、就職活動に挫折したからだった。

その日私は超大手損害保険会社の筆記試験を受けていた。3時間以上あった気がする。今まで受けたどの筆記試験より難しく、そして時間が長かった。
やっと終えた時にはあまりの手応えのなさと、気力体力を使い果たしたことにより、呆然としていた。実際、自信をもって答えられたものは3問くらいしかなかった。

その後、事前に知らされていなかった

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今日をそのまま過ごしたら、何かとてつもなく悪い事を実行に移してしまいそうな気がしたのだ。

今日をそのまま過ごしたら、何かとてつもなく悪い事を実行に移してしまいそうな気がしたのだ。

いても立ってもいられないとはこういう事かと実感した。

私は愛用していたリュックを引っ掴むと、髪の毛もろくにとかさず、服もその辺に落ちているものを適当に着込んで家を飛び出した。

自転車は相変わらずキィキィと不快な音を立てる。つい先日空気を入れたばかりのタイヤも、もう既にコンディションが落ちている。
自転車の錆び方には本当に閉口する。だが今はそんな事を言っている場合ではない。

私は裏道を選

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今もし、私が涙を流すとすれば、あの頃私が散歩をしながら流した涙の味とは全く違う味がするだろう。

今もし、私が涙を流すとすれば、あの頃私が散歩をしながら流した涙の味とは全く違う味がするだろう。

茨城県に来てすぐの頃、私はよく散歩をした。

今日、かなり冷たい風が吹いてはいるが、雲一つない晴天な空を見て、家の中が全く片付いていないにも関わらず携帯とイヤフォンをひっつかんで飛び出した、うきうきした私とは真逆の感情を持って。

2012年4月、私はそれまで住んでいた東京都葛飾区から茨城へ住民票を移した。理由は結婚だった。今まで一度も東京以外の土地に住んだことがない私は、当然ながら運転ができなか

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