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恋愛至上主義とアセクシュアル──「まだいい人に出逢えていないだけ」って本当?

他者に性的惹かれを抱かないアセクシュアルの私とって、恋愛は謎だらけだ。何かしら恋愛関連のことで断る際に「いや、私は恋愛をしないので…。」と周りに言うと次のような言葉が返ってくる。「まだいい人に出逢えていないだけじゃない?」と。 

私たちは、恋愛を最も素晴らしいものとされている、恋愛至上主義の世界で生きている。ほんとうは、恋愛がすべての人にとって素晴らしいとは限らないし、ひとによって恋愛をどこまで大切にしているかなんて一人ひとり違うはずなのに、何故か恋愛が最も素晴らしいものとされている。なんなら、その恋愛至上主義の世界とアセクシュアルについて思う存分に語ってみようではないか。

なお、アセクシュアルは他者に性的惹かれを抱かないなら性愛のことではないかと思う方もいるかもしれないが、世の中のひとにとっては恋愛の中に性愛が入っているので、今回は恋愛としてざっくり語ることにする。


※アセクシュアルを知らない方はこちらの用語解説をどうぞ



恋愛至上主義の構造

ふむふむ。どうやら、デジタル大辞泉によれば恋愛至上主義とは、恋愛を人生で最もすばらしいものであるとする考え方と書いてある。なるほど。これは、他者に性的惹かれを抱かないアセクシュアルにとって、非常に相性が悪いものである。

この恋愛至上主義が蔓延った今の社会では、恋愛を何よりも大切にしなきゃいけない。恋人がいるならその相手を一番に愛さないといけないし、恋人がいないなら付き合う相手を見つける努力をしなきゃいけない。

そんな恋愛至上主義の世界で、キスやセックスなどが未経験もしくは恋人がいない状態が長く続けば、恋愛が苦手な人・モテない人などの恋愛弱者として位置付けさせられる。そうして、恋人がいない状態のまま歳を重ねると、ある一定の年齢辺りから何かしらの事情があって良い縁に恵まれず、恋愛ができない人という訳あり案件の人間とされる。

でも、何故恋人がいない状態が続くだけで、そこまで思われてしまうのだろうか。そう、それは、まさに恋愛を人生で最もすばらしいものであるとする恋愛至上主義がそうさせているのである。

恋愛至上主義的に考えるとこうなる。恋愛が人生において最も素晴らしいものであるのに、恋愛をしないなんてなんかおかしい。恋人がいない理由は必ずどこか原因がある。なら、その原因は何だ。恋人が長期的にいない状態の人たちに疑いの視線を向ける。アセクシュアルの人間にもその疑いの視線を向けられる。そうして、恋愛至上主義的に異物の人間は「訳あり人間」などとされ、何かしらの事情があって恋愛の素晴らしさを楽しめない、ずっと独りで可哀想な人間と勝手に理解されるのだ。


恋愛は常に変わり続ける

よくよく考えると、本来そのひとにとって恋愛がどのくらい大切なのか、一人ひとり異なるものである。恋愛をしなくちゃ生きていけない訳ではない。する人もいれば、しない人もいる。恋愛至上主義の社会にいると、そのことについて忘れてしまう。

だが、恋愛至上主義の世界では恋愛をしない者に対して、氷の矢を放つかのように非常に厳しい。恋愛至上主義的に見れば、恋愛を諦めたように見えるアセクシュアルの人たちに対しても「いやでも、まだそれはいい人に出逢えていないだけじゃないの?」とか言って、恋愛することを口癖のように勧めてくる。

しかし、それは「恋愛したらあなたも恋愛の魅力に気付くはず。」という恋愛至上主義の社会が作ってしまった、残念な価値観のゴリ押しである。

そもそも、人びとがいう「恋愛」がどういうのを指すのか、十人十色だ。恋愛をしたことがある人たちに「恋愛ってどういうものですか?」聞いたら、ひとりひとり違う「私の恋愛観」が答えとして出てくるのだ。その中にはもちろん、恋愛をする人たち同士でも喧嘩になりような恋愛観もあるだろう。

たとえば、浮気をする人もいれば、浮気を許せない人もいる。浮気をする人にとっての恋愛は、浮気も恋愛のなかに入っているはずだ。しかし、浮気を許せない人が思う恋愛には、浮気は恋愛の一部に辛うじて入っていたとしても、何でそんな行動が出来るのか理解できず、恋愛の価値観が違う者がするものだと思っている。

このように、恋愛をする人同士でも、浮気に対しての価値観の違いがあるように、恋愛がどのくらいそのひとにとって大切なのかも、ひとりひとり価値観が違うのだ。たとえどんなに、今の自分が恋愛が人生において素晴らしいものと思っていても、十年後も同じように思うどうかなんてわからない。恋愛よりも素晴らしいものに出逢うことも、当然あり得る。

よって、恋愛が人生において最も素晴らしいものという考えも、恋愛というもの自体が時代ごとに変化していくのと同じで、人びとが思う恋愛についての言説も、常に変わり続けるものである。


恋愛至上主義な表現に対してのアセクシュアルの批判

恋愛に対する言説が変わり続けるのと同じく、アセクシュアルについての言説も変わっていく。

昨今、アセクシュアルをどう表現するかで当事者の間などで問題になり、時にはSNS上で炎上することも増えてきた。すでにアセクシュアルを描いた作品が世の中にある程度出回ってきたからこそ、問題視されるようになったのだろう。

だが、現実はアセクシュアルを知らない人たちが殆どである。恋愛が人生において素晴らしいものとされている恋愛至上主義な言説が強く、アセクシュアルだからと言っても、それらに押し潰されるのが現状である。

けれど、それだからと言って「この恋愛至上主義的な表現は、アセクシュアルにとって差別になります。抗議します。」と従来の差別運動と同じようなやり方で行動してしまうと、私たちも同時に恋愛について語りづらくなり、批判することさえもできなくなってしまうこともあり得るのだ。

だから、アセクシュアルの当事者として表現について批判するときは慎重にならなければならない。さまざまな人たちが暮らす世界に生きているからこそ、価値観が違う他者を否定するだけでは問題は何も解決しない。そして、恋愛は人生において最も素晴らしいものという恋愛至上主義もまた、数ある恋愛についてのひとつの考えなのである。そのことを私たちアセクシュアルは恋愛至上主義を批判する際に忘れてはいけない。


さいごに── 愛は恋愛だけのもの?

今回、恋愛至上主義の社会からアセクシュアルを思う存分語ってきたが、私は恋愛自体を否定する気にはなれない。たとえば、恋愛で結ばれて幸せそうにしている人たちに向けて恋愛を否定することは、果たしていいのだろうか。相手の大切なものをわざわざ否定することは、世の中にとって良いことであろうか。それも、価値観の違いなのである。

ただ、私は誰かを愛すること=恋愛になりがちな恋愛至上主義の社会などに対しては疑問を抱いている。誰かを愛する手段として恋愛を選ばないだけであって、愛することを恋愛だけのものにするのは勿体ないと思うくらい、愛することは素晴らしいと考えている。アセクシュアルだろうが何だろうが、愛は恋愛だけのものじゃなくていいはずだ。けれども、今は「愛している」と言ったら、その言葉は恋愛に変換されてしまう。もっと、たくさんの愛の表現があってもいい気がしてならない。だからこそ私はこれからも、愛の問いを投げかけていこう。



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