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恋愛感情抜きで家族になれる?ドラマ『恋せぬふたり』感想、アセクシュアルの擬似家族と問題点を語る

────私と恋愛感情抜きで家族になりませんか?

NHK総合のよるドラ枠で放送されていたドラマ『恋せぬふたり』は、ひょんなことがキッカケでアロマンティック・アセクシュアルの二人が恋愛感情抜きで同棲生活を送るという物語だ。日本で初めてアセクシュアルを主人公にした地上波のドラマだし、恋愛抜きの擬似家族同棲モノをアセクシュアルで描くなんて面白そうだなと、放送前は楽しみにしていた。

しかし、いざドラマが始まったら、アセクシュアルについてはすごく丁寧に描こうとしているけれども、なんかどうも引っかかる。このモヤモヤは一体なんだろう。どうも本作では、アセクシュアルの疑似家族について投げやりになっているような気がする。擬似家族的な関係を「家族(仮)」とドラマで名付けたぐらいなのに、なんで最終回であんなふうになってしまったのだろう。そして、このドラマが本来描きたかった「家族(仮)」とは何だったのだろうか。

なので、今回はドラマ『恋せぬふたり』に出てきた「家族(仮)」を中心に、ドラマの感想を書いてみようと思う。

※なお、アセクシュアルは他者に性的惹かれを抱かないことを指すが、世間一般として恋愛のなかに性愛があるので、今回は恋愛としてざっくり語ることにする。詳しいアセクシュアルの説明はこちら

※なるべくドラマを観たことない人にもストーリーがわかるように説明を入れているのでネタバレ全開です。


従来の恋愛漫画+アセクシュアルの物語

人気の恋愛ドラマには、漫画が原作のパターンが多い。あの逃げ恥や花男だって、漫画が原作だ。本作の『恋せぬふたり』ではそれを踏まえて上で、従来の恋愛漫画において散々描かれてきたものを意図的にストーリーに配置している。そして、今までの恋愛漫画の文脈であまりなかったことをわざとやったり、「恋愛じゃない」選択肢・アセクシュアル的な要素などをさまざまな場面で導入している。そうやって、従来の恋愛漫画に散々描かれてきたものを使いつつ、恋愛じゃない二人の物語として表現して、今の恋愛に対して疑問を投げかけるようなドラマにしている。本作ではそれを試みようと幾つもの仕掛けがされている。


わかりやすい例として、主人公の咲子(岸井ゆきの)と羽(高橋一生)、恋愛感情を咲子に抱くカズ(濱正悟)との関係。カズは咲子の会社の同僚であり、咲子と付き合っていたがなんか上手くいかず、恋愛関係としての付き合いを活動休止していた。そこに、羽という存在が現れる。従来の恋愛漫画的に解釈すると、この三人は恋の三角関係だ。しかし、咲子と羽との関係に恋愛感情はない。そのことに気づいたカズは、その後咲子たちの良き理解者になっていく。

本作ではそういう恋愛漫画によくあるシーンにアセクシュアル的な「恋愛じゃない」描写をこれでもかというくらいに、ちょくちょく入れてくる。


だが、今あげた例以外では、仕掛けが上手く機能していないことのが多く、せっかくのアセクシュアルの二人の同棲生活「家族(仮)」の設定も活かしきれていない。アセクシュアルを描くこと以外は、一体何をしたかったドラマなのかいまいち掴めないのだ。キャラもストーリーも、あれもこれも描きたいからと欲張って全体的に詰め込みすぎた結果、必要性を感じない要素が出てきてしまい、それらがストーリーに矛盾を起こし膨れ上がっていた。



問題だらけの最終回、二人が離れて自由に暮らすハッピーエンドした理由

ではなぜ、本作のメインテーマでもあるアセクシュアルの同棲生活「家族(仮)」設定が上手くいかなかったのか。

ドラマ『恋せぬふたり』の最後回。主人公の咲子は、羽の半年前に亡くなった祖母の家に羽と二人で住んでいる。ふと、羽に諦めかけていた夢を追えるチャンスがやってきた。しかし、その夢を追うには、今住んでいる祖母の家から出ていかないといけない。おばあちゃんっ子の羽にとってこの家は大切なものであり、空けておくのは嫌だと言う。それと同時に、咲子との疑似家族的な関係「家族(仮)」を失いたくないからこそ、このままずっとここに居たい。諦めも肝心だと言い聞かせていた。そんな羽の夢を咲子は後押ししてやり、羽は夢を追うために家から出ていき、咲子は羽に託された祖母の家にひとりで住み続ける。そうして、咲子と羽の「家族(仮)」という同棲生活が終止符を打つ。一年後、お互いに別々に暮らしながらも、仲良く連絡取り合う様子を描いて、このドラマは終わりを迎える。


しかしそれは、お互いに好きなことをしているように見えて、すごく投げやりな最終回にしか見えなかった。今までドラマに描かれていた羽の性格上、いきなり新天地で夢を追いかけられるようなキャラクターとして羽を描いていなかった。第5話で主人公たちが小田原に行くエピソードで「遠出をするのは修学旅行ぶりなので。祖母が腰を悪くしていたので。」という遠出しないキャラクターが夢を追うために人生をかけて40歳でいきなり新天地へ行けるだろうか。羽の第5話においての「遠出するのは修学旅行以来」の設定は果たして必要だったのか。その設定が崩壊の原因のひとつのなり、最後の最後でキャラ崩れてしまい、何が何だかわからない謎の終わりとなってしまった。


この終わりにした理由はおそらく、恋愛漫画でよくあるハッピーエンドではない、別のハッピーエンドをこのドラマで成立させたかった。ひょんなことから始まった同棲生活を終わりにしなければ、二人で仲良く暮らしましたというよくある恋愛漫画のハッピーエンドそのものになってしまう。だから、二人は離れてお互いにやりたいことをするという、恋愛漫画のハッピーエンドではない別のハッピーエンドを提示して、本作の終わりにした。


しかし、これまで築き上げた恋愛関係ではない彼らの擬似家族としての同棲生活の物語は、一体何だったのか。結局、ひとつのお家に仲良く暮らすアセクシュアルの二人を描くためだけの設定だったのであろうか。


求められるアセクシュアルの「新しい家族像」

なぜ、そこまでこのドラマにおける疑似家族的な同棲生活を私は重要視するのか。それには、理由がある。

いまの社会で恋愛しない生き方を選択するということは、ずっと孤独感を抱えながらひとりで生きていくことになる。だが、孤独死など社会との繋がりをなくしてしまったニュースなどを見たら、ある程度の何かしらでひととの繋がりはあったほうがいいかもしれないと考え始める。そうして、婚活やマッチングアプリなどで、ひととの繋がりを求めて新しい家族を作ろうとする。

だが、アセクシュアルはそう簡単に作ることができず、壁にぶつかりやすい。意外に思うかもしれないが、アセクシュアルでもパートナーや子供が欲しい人は一定数でいる。今回のドラマで取材協力した団体の交流会でもパートナーや友情結婚・シェアハウス、さらには子どもを産むか・里親制度を利用するかなどについて話題に上がっている[★1]。私が数年前に参加したアセクシュアルの当事者の会でも同じような話題でディスカッションされていたほどだ。一部の人たちからは、アセクシュアルは少子化の象徴だと思われがちだが、子供が欲しいか欲しくないかはアセクシュアルと別問題である。それは同様にパートナーでもだ。あくまでも、アセクシュアルは恋愛に対しての他者に性的惹かれを抱かない性的指向であり、子供やパートナーがほしいという欲望は別なのだ。


だが、そんなふうに言っていても、恋愛関係で結ばれる相手が友情よりも最優先になっている恋愛至上主義の社会では、恋愛じゃない方法でお互いに助け合えるようなパートナーを作ることはなかなか難しい。よほど運が良くなきゃ、条件が揃う相手を見つけることができやしない。子どもなんて尚更だ。それが、アセクシュアルの現状で抱えている問題でもある。


「家族(仮)」を現実にするために、家族の概念を再定義する

本作には、面白い試みはちらほら見えるものの、それを上手く活かせなかった。この物語の終わりを従来の恋愛漫画ではしない、最後でお互いに離れて暮らすハッピーエンドにしたかったのかもしれない。しかし、お互いに離れて暮らしていても「家族(仮)」は続くとドラマでは言っていたものの、離れて暮らすことでお互いに個々で楽しく自由に暮らしましたという物語の終わりならば、結局のところ一緒に暮らすよりも別々に暮らした方がお互いにとって良いとも読めてしまうのではないだろうか。

「家族(仮)」と名付けた擬似家族。別に作品内でその答えを出せという訳ではない。ただ、アセクシュアルをしっかり描いていたドラマだったからこそ、アセクシュアル+擬似家族という設定をもっと上手く使いこなせたのではないかと考えてしまうのだ。


恋愛でも夫婦でも家族でもない疑似家族的な「新しい家族像」がこのドラマのメインテーマのひとつだった。同棲生活で疑似家族を描いている以上、家族については避けられない。恋愛関係ではない程よい関係の疑似家族的な繋がりを描いていたドラマだったこそ、最後まできちんとその関係を描ききってほしかった。


突き詰めれば、家族とは地縁でも血縁でもない。お互いに離れて暮らす親子が家族と呼ばれ、たまたま飼ったペットが家族になる。つくづく家族とは、不思議なものだ。

思想家である東浩紀の『訂正可能性の哲学』のように、「家族とは訂正可能性に支えられる持続的な共同体を意味する」ともっと広い意味で家族を捉えていけば、ドラマ『恋せぬふたり』に出てきた「家族(仮)」みたいな関係からもっとゆるい繋がりも、いつの日にか誰かと人生を共に生きていくための選択肢の中のひとつになれるかもしれない[★2]。

だって、私たちは家族の概念を再定義していくことができるのだから。




★1 「にじいろ学校主催 第37回Aro/Ace交流会議事録」にて確認。
[URL] https://nijikou.hatenablog.jp/entry/2022/03/14/112428

★2 東浩紀「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」『ゲンロン12』2021年、73頁 家族以外でも様々なことを語っている面白くて読みやすい論考なので、是非読んでほしい。




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