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夏目漱石が『坊っちゃん』の年代設定を、明治38年にこだわった理由

なぜ夏目漱石は、矛盾が生じるにもかかわらず『坊っちゃん』の年代設定を明治38年にすることにこだわったのか。それは大国ロシアとの戦争を終えたばかりの、まさに今現在の日本社会を描いた物語なのだと、一人の作家として世の中に問いかけたい強い意志があったからなのです。



明治38年の設定なのに、明治28年の風景の謎

夏目漱石の『坊っちゃん』の舞台が、明治38年の松山ではなかった件について」で説明したように、『坊っちゃん』は明治38年に時代設定されていながら、そこに描かれている風景は明治28年のものという、年代が不一致な状態で発表されていたことが判明しました。なぜ漱石は物語の時代設定を、自分が教師として赴任していた明治28年にしなかったのでしょうか? あるいは物語の舞台を「四国辺」にして匿名性を持たせたのだから、そのまま日露戦争に関する記述を消して年代を曖昧にすることだってできたはずなのに、どうしてそうしなかったのでしょうか? 
 
 もちろん、所詮はフィクションなんだし細かい時代考証なんて気にしなくていいじゃないかという人や、漱石は松山の変貌なんて知らないし、そんな些細なことを気にするほど暇人じゃない――『坊っちゃん』はたったの10日ほどで書き上げられたという説もあります――という人もいるでしょう。しかし、わざわざ松山出身の高浜虚子に伊予弁の添削を依頼するような人間が、10年の歳月が及ぼすであろう松山の変貌を気にも留めなかったというのは少々考えづらいのです(というか、編集者として関わった虚子も故郷の描写に違和感を覚えなかったんでしょうかね)。

直筆原稿から得られる仮説

 この明治38年問題を考えるにあたって、集英社から出版されている『直筆で読む「坊っちやん」』が大変参考になります。この本は夏目漱石が書いた『坊っちゃん』の直筆原稿を、写真という形で完全収録したものです。流石に明治時代に書かれた文章だけあって非常に読みづらく、漱石ファンでなければ無理に手に取る必要はないかもしれません(漱石の孫にあたる夏目房之介氏でさえ、あとがきに「やはり読みにくい」と書かれています)。 そんなマニアックな直筆原稿本ですが、世に出回っている坊っちゃんと読み比べてみると、かなりの箇所に修正が加えられていることがわかります。そして驚くべきことに、坊っちゃんの赴任先も、当初は「四国辺のある中学校」ではなく、「中国辺のある中学校」になっているのです。

『坊っちゃん』には、松山中学校の教師時代のエピソードがふんだんに取り入れられています。それにもかかわらず、漱石は物語の舞台を松山にするのを避けました(執筆前の構想段階で大まかに描くことは決めていたはずなのに)。そして松山以外の赴任先の候補として挙がっていた山口県がある中国地方に設定しようとします。しかしそれでは筆が進まなかったのでしょう。どの段階かはわかりませんが、「中国辺」の「中」の字に斜線が引かれ、隣に「四」が書き足されることになりました。素直に松山を物語の舞台に設定すればいいのに、どうして漱石はこんなことに頭を悩ませたのでしょうか。 

漱石が何よりも伝えたかったこと

 この葛藤の根底に潜んでいるものこそ、この記事のテーマである明治38年問題が関わっているのです。つまり、『坊っちゃん』という作品のコンセプトは、日露戦争を終えたばかりの明治38年の日本社会を描くというところにあったのです。そして漱石は自身の松山中学校の教師時代のエピソードを基に創作しようとしますが、舞台まで松山にしてしまうと、どうしても自分の記憶の中にある明治28年の風景しか描けず、10年間のズレが生じてしまいます。まさか松山がその頃とまったく同じ風景であるはずがないし、かといって現代のように東京から半日で取材に行けるわけでもなければ、インターネットで情報収集できるわけでもありません。そこで漱石は、あえて自身とあまり縁のない「中国辺のある中学校」に舞台を設定して、架空の土地で物語を作れないか検討したのです。

 最終的に出版された『坊っちゃん』は、時代設定こそ明治38年になっているものの、そこに描かれている松山は10年前の景色という、ちぐはぐな仕上がりになってしまいました。最初に書いたように、時代設定を自分がいた頃の明治28年に設定すれば、楽に整合性が取れたのです。あるいは、明治38年であることの判断材料となる日露戦争に関する記述を消して年代不明にしてしまうことだってできたはずです。それにもかかわらず、漱石はこの問題点に手を加えようとはしませんでした。

 それは漱石にとって、明治38年という時代設定が、修正しなかったというよりは、どうしても譲れない要素だったからです。たとえ作品に多少の問題点を残してしまうとしても、漱石は同時代の読者に、『坊っちゃん』は明治38年の物語であると伝えたかったのです。この作品は10年前じゃ駄目なんだ、大国ロシアとの戦争を終えたばかりの、まさに今現在の日本社会を描いた物語なのだと、一人の作家として世の中に問いかけたい強い意志があったのです。

 そんな漱石の熱い思いを汲んで、私たちは『坊っちゃん』という作品に触れるべきではないでしょうか。

参考文献・引用文献 
 
夏目漱石『直筆で読む「坊っちやん」』集英社新書,2007.
 

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