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夏目漱石の『坊っちゃん』の舞台が、明治38年の松山ではなかった件について


坊っちゃんは事あるごとに自分の赴任先を田舎だと馬鹿にしますが、実際のところ明治38年の松山はそれほどまでにひどい田舎だったのでしょうか? 当時の文献を調べてみると、実は物語の舞台が明治38年の松山ではないことが判明しました。



そもそも『坊っちゃん』の舞台ってどこ?


 この質問に答えられる人は、割と多いと思います。正解は愛媛県の松山ですね。作中ではっきりと明言されていないものの、坊っちゃんの赴任先は「四国辺のある中学校」ですし、そこの住民は「ぞな、もし」といった具合に伊予の方言で話します。その上、「温泉街」や「マッチ箱のような汽車」が登場し、作者である夏目漱石が20代後半の頃に松山中学に赴任していたとなると、素直に解釈すれば物語の舞台は愛媛県の松山しか考えられません。
 それではこの質問はどうでしょう。
 
『坊っちゃん』はいつ頃の時代設定の物語なのか?
 
これはグッと正答率は下がりそうです。答えは「天ぷら事件を日露戦争のように触れ散らかすんだろう」、「祝勝会で学校はお休み」などといった記述や、「クロパトキン」というロシアの軍人の名前から、日露戦争終結間際の明治38年(1905年)の物語だと特定することができます。

 また、大量のバッタを入れられたり、着任からおよそ1か月後に青い蜜柑の実がなっていることから、季節としては夏の終わりから秋の始まりの頃でまず間違いないでしょう(なお、村木晃氏が愛媛県農林水産部農産園芸課果樹係に問い合わせたところ、坊っちゃんに出てくるみかんは温州みかんの可能性が高いという回答が返ってきたそうです)。
 
 そして当時の愛媛県立松山中学校の資料を見ると、明治38年は7月19日に終業式があり、9月1日に2学期の始業式が行われたと書かれていて、坊っちゃんもこの始業式のタイミングで赴任してきたということになりそうです。
 
さて、ここからが問題なのですが、『坊っちゃん』は明治38年に時代設定されているものの、いくつかの郷土資料や日露戦争時の文献に目を通すと、当時の松山の風景と作中の風景がかなり異なっていることに気が付きます。それもそのはず、漱石は自身が教師として松山中学校に赴任していた明治28年(1895年)の松山のイメージを基にして作品を描いたわけですから、そこにはおよそ10年間の時間のズレがあるのです。
 
現代人の私たちからすると、10年のズレなどたかが知れていると思ってしまうかもしれません。しかし明治時代の10年という時間は、松山に大きな変化をもたらしていたのです。
 

実際の明治38年の松山


 それでは、実際の明治38年の松山の風景を覗いてみることにしましょう。『松山市史第三巻』によりますと、松山では明治30年頃から中央都市の文化が普及してくるようになります。具体的には、2点間をつなぐ直接方式ではあるものの、一部の施設で電話が取り入れられるようになり、明治35年にはデパートの前身にあたる勧工場が建てられます。また、同35年に電気が普及し始め、街の一部に明かりを灯すようになっていました。
 
 そして作中では一言も言及されていない、日露戦争でのロシア人捕虜の存在も見逃せません。明治38年の4月時点では、何と4000人もの捕虜が松山に収容されていたのです。彼らは捕虜という身分でありながら市街での自由行動がある程度認められ、人力車を乗り回し、ショッピングを楽しんでいたのだとか。その証拠に、彼らの影響で松山では洋服が急速に普及し、明治32年には350人いた仕立職が、同38年になると500人に増加したそうです。
 
 そんなロシア人捕虜の一人であるクプチンスキーが回想録を書き記していて、現在も翻訳されたものを読むことができます。彼は明治38年の2月に解放されたので、残念ながら坊っちゃんが赴任していたであろう時期とは重なっていません。しかし旅順が陥落した際の松山の様子が非常に興味深いので、以下に引用します。

 陽の光は、絵に画いたような勝利の祝賀風景を燦然と日本人たちは多数の戦利品―ロシア人捕虜―氾濫するここ松山市内で旅順陥落を祝っている。祝賀行事は夜も昼もやむことがない。中略。奇妙な形をした龍が空想的な怪獣の姿で群衆の上に波打っている。変な色の軍服をまとったロシア兵のかかしが、長い棒にぶらさがっている。―これらすべては動く、色とりどりの、おとぎ話の絵のようだ。
「万歳!リュージンゴウ!〔旅順港〕」の叫び声はラッパ、太鼓、ドラ、爆竹の音と混ざりあう。楽師たちは幻想的な服装をしている。色の大海原。ざわめきの渦。
  中略。
 特に興味深いのは、いろいろな形と何千という提灯が輝く夜の祝賀風景である。中略。騒音と叫び声は明け方まで響いた。行列は決まって捕虜収容所近くでとまって、皆が目を覚ますくらい大騒ぎした。

F・クプチンスキー『松山捕虜収容所日記 ロシア将校の見た明治日本』より

 クプチンスキーは松山を「絵に描いたような田舎町」としながらも、日本軍が旅順を陥落させた際には、街中でお祭り騒ぎになっていたことを書き残しています(細かな描写と「夜も昼も」ということから、騒ぎは一日では収まらなかった可能性もあります)。これはあくまで推測ですが、樺太を占領した7月31日以降や、日露講和条約を結んだ9月5日前後も、旅順陥落の時と同様の熱狂があったとしても不思議ではありません。
 
 当時のことが記された文献や資料から読み取れるように、実際の明治38年の9月以降の松山は、電気や電話などの中央の文化が流入し、ロシア人が闊歩し、朝も夜もお祭り騒ぎが繰り広げられているような土地だったのです。東京の足元にも及ばない、広いようで狭い、ランプで明かりを灯すような薄暗い田舎町である『坊っちゃん』の松山は、あくまで漱石が赴任していた明治28年の風景なのです。

坊っちゃんの物語の舞台は、明治38年の松山ではなかった


実際の明治38年の松山は、

・一部の施設で電話が取り入れられていた
・デパートの前身である勧工場が建てられていた
・電気が普及し始めていた
・ロシア人捕虜が街を闊歩していた

以上の4点から、
物語の風景は明治38年の松山ではなく、実際に漱石が赴任していた明治28年の松山をもとにしていたことが明らかになりました。

 おそらくここまで読んだ方の中には、「でも結局は物語の舞台は愛媛の松山だってことなんだろ? 何だか読んで損しちゃったよ」と思う方もいるでしょう。
 しかし視点を変えて、なぜ漱石は『坊っちゃん』の時代設定を明治38年にこだわったのかを考えると、意外な仮説が浮かび上がってくるのです。

 続きは『漱石が『坊っちゃん』の年代設定を、明治38年にこだわった理由』となります。

参考文献・引用文献
 
 
 F・クプチンスキー『松山捕虜収容所日記 ロシア将校の見た明治日本』中央公論社,1988.
 
 愛媛県立松山中学校『愛媛県立松山中学校一覧 明治四十一年六月』1908.

 村木晃『「坊っちゃん」の通信簿―明治の学校・現代の学校』大修館書店,2016
 

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