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嘘の愛

突然だが、皆さんは嘘をついたことがあるだろうか。
本当はやってしまったことをやってないというシンプルな嘘や、物事を穏便にすませるためにつく嘘など
いくらかあると思う。前の記事で書いた、家が持つ三つの機能が欠けた環境で育った私は、自分自身に対して嘘をつくようになった。

人は皆幸せになりたい。ではその幸せに占める要素として「愛」はどれほどのものだろうか。愛する人と一緒にいたい。好きなことを仕事にしたい。趣味を充実させたい等々、すべて「愛」をもとにした観点に思える。
これらの事柄に嘘をつくとどうなるのか。「こんなことやりたくないんだけどな~」とやりたくもない仕事を延々と続けたり「この人好きじゃないんだけどな~」と思いながらも苦手な人と関係を築いてしまったり、「好き」の内容が奇妙に捻じ曲げられてしまうのである。

なぜこんなことが起きるのか。それは「嘘の愛」を「愛」だと信じ込まされているからである。

この嘘の愛を愛だと欺くのには多々方法があるが、私自身は家庭の中で
両親の、「愛着」や「教育」を抜きにしてひたすら食事という餌を与え続ける餌付け的「養育」を受けた。子供は「こんなにもぼくのたわたしのためにご飯を作ってくれる」という刷り込みによってそれを「愛」だと錯覚する。
しかし両親の養育の本当の目的は「愛がないことを隠すため」なのである。
これを隠すのに彼らは必死である。なぜならその裏には彼ら自身の「罪」が潜んでいるからである。

子供がこれを超えるにはどうすればいいのか。
その子供自身に適した「愛」に出会うことである。それは好きな人と付き合うでもいいし、趣味を持つでもいいだろう。しかしこれは簡単なことではない。
なぜならその子供自身が「嘘」をついているという「罪の意識」を抱えているからである。こういったものは逆説的で、その子供にとって適切な愛に向かおうとすればするほどに、罪悪感が出てくるのである。好きなことをやりたいけどできない。
好きな異性に近づきたいけどできない。この裏には、真実の愛に触れることで嘘をついていた自分の罪に触れる恐怖が潜んでいるのである。
下手をすると死にたくなってくる。
この子供が向かう先はどこになるのか、私もまだわからないままである。


話はそれるが、私の来歴を少し話そうと思う。
私は男子校出身である。
思春期の異性が気になって仕方ない中学時代、高校受験を控え、私自身は共学に行って彼女を作りたいなんてことを考えていた。ではなぜそんな選択をしたのか。
それは母親のコントロールがあったからだと今なら思える。
もちろん自己の選択には自身で責任を負うというのが一般論である。
が、この選択には母親の、実子が「異性愛」に触れてしまうことを恐れる心理と、そこからくる圧力の影響があったように思われてならない。
なぜ異性愛を恐れるのか、それは実子が愛する異性への嫉妬などもあろうが、根幹は実子が自分が提供してきたものとは別の「愛」に気づいてしまうことへの恐れがあるのだと思う。それは「嘘」が暴かれることにつながりかねない。だから「お前も嘘をつけ」と圧力をかけるのである。
何にせよこんなものを毎度かけられていたらたまらないし、自分の人生を生きるのに適した選択をできなくなってしまう。
どうしたものかといった感である。

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