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手で造られたものは呪われる(4)(第二説教集2章2部試訳4) #85

原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)

※第2部の試訳は6回にわけてお届けしています。今回はその4回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら:


教皇コンスタンティヌス

 ここからみなさんに少し歴史の話をさせてください。古代の著述家エウトロピウスの著作の続きとしてあるパウルス・ディアコヌスなどによる歴史書を紹介しましょう。彼らのなかには偶像を肯定する者もいたのですが、彼らは詳細に当時の歴史を著しており、洗礼者プラティナも著書『教皇の書』のなかの『コンスタンティヌスとグレゴリウス二世の一生』などの箇所でこれを取り上げています。グレゴリウス一世の時代が去り、教皇コンスタンティヌスは西方教会の主教たちを集め、当時の東ローマ皇帝であるフィリピコスとコンスタンティノープル総主教であるイオアンニス六世を、異端の単性論をめぐって極めて合理的に非難しました。自身が学んできた事柄に基づいてそのような非難を行うにあたり、この教皇コンスタンティヌスはすべての人々に認められ受け入れられた六回の公会議で話題となった古代の教父たちの像をローマの聖ペトロ教会の入り口に描かせました。

偶像をめぐっての東西教会の分裂

このことを知って、ギリシア世界はラテン世界の偶像の問題を非難し、キリストの教会堂にはそのような偶像の居場所はないのだという声明を出したのですが、一方でラテン世界の教会堂は引き続き偶像を置きました。これにより偶像にかかわっては、もとはといえばそれが邪なものであるという考えで一致していたはずの東方と西方の教会が完全に対立することになり、二度と和解することもなくなってしまいました。フィリピコスや、アルテミウスすなわちアナスタシウス二世という当時の東ローマ皇帝たちは、帝国内のすべての場所で偶像や絵画を取り去って打ち捨てるようにと命じました。そののちにテオドシウス三世の時代となり、彼は帝国内に偶像を再び飾るようにと命じたのですが、たった一年で退位しました。

東ローマ帝国での偶像排斥

こののちシリア生まれの極めて聡明で信仰に篤く慈悲深い名君であるレオン三世が即位しました。レオン三世は教会堂で崇拝の対象となっているすべての偶像は取り除いた上で破壊されるべきであるという勅令を出し、ローマ教皇に対してもそうすることを要求しました。それにあたって自身は帝都コンスタンティノープルにあったすべての偶像を街の中心に集めて、衆目の中でそれらを焼いて灰にし、あわせて教会の壁面に描かれていたすべての絵画を白く塗りつぶし、偶像を持っていた多くの者たちに厳しい罰を与えました。彼を暴君であるとする者がいることについて、彼は次のように答えています。「神を敬うこともなく、皇帝の権威を認めもせず、公のものに悪意をもって反抗する者たちが厳しく罰せられただけである。」

ローマ教皇による対抗的な動き

ローマ教皇グレゴリウス三世は、ギリシア世界でのこの皇帝の偶像にかかわる行いを耳にして、彼に対抗しようとイタリアの主教たちを集め、そこで偶像についての教令を出しました。偶像に対して敬意と名誉が向けられるべきであるとイタリア人を扇動してラヴェンナの地で反旗を翻させました。のちにウルスベルクのブルクハルトやフィレンツェ司教アントニーノがそれぞれに『年代記』のなかで、彼がついにはローマとイタリア全土にレオン三世への服従と寄進をすべて止めさせたと著しています。このような対抗的な動きによって偶像崇拝が続くことになりました。そののちのローマの司教たちがこれに倣い、極めて根強く続きました。

東ローマ皇帝による偶像排斥の勅令

このレオン三世は三十四年にわたって君臨したのですが、その跡を継いだのが息子のコンスタンティヌス五世で、父に倣って教会から偶像を遠ざけました。偶像をめぐって父帝に対抗すべくグレゴリウス三世がイタリアで開いた会議に影響を受け、彼もまたアジアやギリシアのあらゆる知識人や司教たちを集めて会議を行いました。なお、この会議を彼の父であるレオン三世イサウロスの晩年に行われたものとしている史家もいます。この大きな会議は二月のイードゥースの四日前から八月のイードゥースの六日前まで行われ、偶像の取り扱いについて次のような勅令を出すに至りました。「イエス・キリストをとおして神を信じる者が、創造主に似せたものであれ、被造物を象ったものであれ、偶像を教会堂に置いて崇拝することは律法に適うものではない。神の律法に従い、それを犯すということを避けるために、すべての偶像は教会堂から外に出されなければならない。」この勅令は偶像があったアジアとギリシアのすべての場所に布告されました。

東ローマ皇帝を異端とする教皇の教令

コンスタンティヌス五世はコンスタンティノープルで行われたこの会議の決定を当時のローマ教皇であるパウルス一世に送り、すべての偶像を教会から排除するにようにと命じましたが、彼はピピン三世との友好をあてにしてこれを拒否しました。加えて、彼もその跡を継いだステファヌス三世も、コンスタンティヌス五世とこのコンスタンティノープルの会議を異端であるとして次のような教令を出しました。「キリストや、祝福されたおとめや、聖人たちを象った聖像は、実に誉れと崇敬を向けるに相応しいものである。」コンスタンティヌス五世が亡くなりその息子であるレオン四世が跡を継いだのですが、彼はアテネ出身のテオドラという名の、エイレーネーとも呼ばれる女性と結婚して息子をひとり授かりました。これがコンスンタンティヌス六世なのですが、この息子がまだ幼いうちにレオン四世は亡くなり、東ローマ帝国の実権は幼子の摂政としての妻エイレーネーに渡りました。

純粋であった東ローマ帝国の教会

 これらの出来事は主が生誕された年からおよそ七百六十年の後にあったことです。ここまでの話のなかでみなさんにぜひ気づいてほしいのですが、アジアとギリシアの教会堂にはほぼ七百年間にわたって偶像が置かれていなかったのです。使徒たちの時代に続く初期教会がきわめて純粋であったということは疑いようもありません。さらに、偶像に関する論争が始まってからですが、わずか一年で退位したテオドシウス三世が偶像を認めたほかは、六人ものキリスト教徒の皇帝たちが神の律法に従う為政者であったということにも気づいてください。この時代よりもはるかに前に、いかなる偶像をも造ることを厳しく禁じたウァレンスとテオドシウス二世という二人の皇帝の名をすでに挙げておりますが、そのほかにも別の皇帝たちが、東方教会のあらゆる学識者や司教たちとともに会議を開いて、人々に同じように命じたことになります。総じて言いますと、この二人の皇帝ののち、ギリシア世界のすべての皇帝たちが、テオドシウス三世を除いては、あらゆる偶像を破壊し続けたということになります。

神の御言葉に反するローマ教会

それにひきかえ、みなさんがご承知のとおり、ローマ教会の司教たちは神の御心に適って日常の職務を行っておらず、教区を離れて神の御言葉に逆らって世俗の君主の権威を奪い取っています。神の御言葉に反して偶像を正当化し、神の律法と人の世の法に背いてこの世の王たちへの反乱を扇動して絶えず暗躍し、神への敵となるばかりでなく君主たちへの反逆者であり背信者となっています。このような者たちが教会堂に偶像を持ち込んだ最初の者たちです。このような者たちが教会堂に偶像を置き続ける者たちです。またこのような者たちが偶像を持ち続けることで神やこの世の君主たちに策略や陰謀や反逆や反乱を企てている者たちです。


今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第2部「手で造られたものは呪われる」の試訳4でした。次回は試訳5をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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