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偽預言者に注意せよ(1)(第二説教集2章3部試訳1) #91

原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)

※第3部の試訳は今回から10回にわけてお届けします。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(11分08秒付近まで):


第2部までの振り返り

 神の御言葉が多くのところでどれほど強く平明に、偶像そのもののみならず偶像への崇拝を打ち消すべく発せられているのかをお話しました。わたしがここでこのように言っているのは、わたしたちが偶像を崇拝するようにと心を乱され急き立てられてしまっているためです。その危険性を脇に置いたままで、ただ偶像崇拝が新約聖書のなかで禁じられているからといってそう言っているのではありません。みなさんは教会史をひも解くことによって、偶像崇拝が始まって世に浸透し、偶像崇拝について論争が繰り広げられるなかで、キリスト教界が大いなる災厄や腐敗を招くに至ったことを知りました。また、古代の教父や信仰深く学識のある博士や聖職者が偶像や偶像崇拝を否定する言葉を彼らの著作のなかで知りました。偶像のみならず、教会堂という神殿を過度な彩色や金めっきを施して飾り立てることを正当化するもっともらしい理由づけがなされたことも見ています。これはそもそもあった考え方を曲解したり、それに反論したりすることによってのものでした。

第3部の目的とするところ

こういったことをこの説教でお話したのですが、そもそも学がなければよく理解されませんし、この説教でお話してきたことをよく理解しないでいては、偶像を正当化する者に対してあまりに冗長なまわりくどさをもってしか反論できなくなってしまいます。ここからはさきの説教でお話した多くの事柄を再び読み上げることになりますが、繰り返してお話するのは余計なことではなくむしろ必要なことです。というのは、素直で信じ込みやすい人々にとっては、お話してきたことがどのようにして偶像を正当化する主張につながって悪用されるのかを理解することができないからです。

教会堂に偶像はあってならない

 偶像を正当化する者たちにまずもって引き合いに出されているのは、聖書にあるあらゆる律法や戒めや呪いと、高名な博士たちの文言です。これらは偶像そのものも偶像崇拝も否定するもので、異邦人の教えにあるジュピターやマーズやマーキュリーなどといった異教の偶像にかかわり、神やキリストや聖人たちといったわたしたちが心を向けるべきところにかかわるものではありません。とはいえ、神の御言葉によっても、また古代の博士たちの文言や初期教会の考えによっても明らかにされているのは、異教の偶像はもとよりわたしたちが心を向けるべきものの像であっても、特に教会堂という神殿に置くことは禁じられていて不法であるということです。このことは神の御言葉において繰り返されていて、父なる神と子と聖霊の像を別々にしてか、その三位を一体とした像を教会堂に置くのは、聖書のいくつかの箇所で力強く禁じられ戒められています。「あなたがたの神、主は、火の中から語りかけられた。語られる声をあなたがたは聞いたが、声のほかには何の形も見なかった(申4・12)。」これは偶像について戒めるこの説教の第一部で高らかに訴えたことです。古い律法においては、神の御座である贖罪所にはなにもあってはならず、神を象ったものを造らないようにとされていました。

イザヤ書にみる偶像の否定

イザヤは神の無辺の御稜威を讃えたのちにこのように言っています。「鋳物師が偶像を鋳て造り、細工師がそれに金をかぶせ、銀の鎖を細工する。貧しい者は献納物として朽ちない木を選び、巧みな職人を探し出し、動かない偶像を据え付ける(イザ40・19~20)。」このうえで、彼は声を大にして次のように言っているのです。「あなたがたは知らないのか、聞かないのか。初めからあなたがたに告げられてはいなかったのか。(同40・21)。」「主は永遠の神、地の果てまで創造された方(同40・28)。」「神を誰に似せ、どのような像と比べようというのか(同40・18)。」預言者イザヤはこのように述べ、第四十四章から第四十九章まで、この他のことについては一切触れていません。

使徒にみる偶像の否定その1

聖パウロにしても、『使徒言行録』のなかで、「神である方を、人間の技や考えで刻んだ金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません(使17・29)」と言って同じことを説いています。これと同じような多くの言葉が聖書には他にもあるのですが、はっきりしているのは、偶像はどんなものであれ神に向けて造られるべきではなく、また造られようもないということです。極めて高貴な霊である神を誰も見たことがないというのに、どうして形ある粗悪な似姿を造ることなどできるというのでしょうか。神の無辺の御稜威と偉大さは人間の知能では量りようもなく、まして感覚でとらえることなどできないというのに、どうして小さく弱々しい偶像でもって似せることができるというのでしょうか。命なく押し黙った偶像がどうして生ける神を表せるというのでしょうか。偶像は倒れてしまえば起き上がることもできず、友の助けさえ求めることができないばかりか、敵を打ち負かすこともできません。それがどうして、おひとりであっても友に報い、敵を永遠に滅ぼされる極めて力強い神を表すことができるというのでしょうか。預言者ハバククとともに「職人の造った彫像や鋳像と偽りを教える者が何の役に立つだろうか(ハバ2・18)」と嘆かざるをえません。

使徒にみる偶像の否定その2

神を象った像をもって神を崇める者たちは、神をひどく貶めてその御稜威を汚し、御栄えを暗くして神の真を偽りのものとしています。それゆえ聖パウロは木や石などを使って、滅ぶべき人間などの姿にして神に似せて象ったものを造ることについて、「神の真理を偽りに替え(ロマ1・25)」ていると言っています。そのようなことをする者たちはその像をただの木や石とみなすのではなく、神を象った像としています。そうした像はただの偽りではなく二重の偽りとなります。「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである(ヨハ8・44)。」神に似せて造った像で偽りを行うのは神の民としての大いなる不実であり恐ろしい危うさであって、悪魔から出たものです。

神の像は造ってよいのか

 神の民は三位一体である神の像を造ることの愚かさや邪さを罪であるとします。聖書の教えによって明らかであるとおり、神の像はいかなるものであれ造られるべきではなく、また造られようがありません。いったん不信心から神の像を求めてしまうと、神に似せた像をみるとき以外は神がおわしますことを考えなくなります。これはあの荒野でアロンがヘブライ人に対して、目で見て拝むための偽の神を造ったことに見ることができます(出32・2~4)。しかし『イザヤ書』や『ダニエル書』に、神が高い御座におられるということについての確かな記述がありますが、画家は玉座にあって裁くお方である神を、目に見えるように色をもって描いていないでしょうか。神が預言者たちの文言によって述べられているのと絵で表されているのにはほんの少しだけの違いしかないのでしょうか。

神はいかなる形にも表されない

これにはこう答えることができます。まず、預言者が神を語ることは神に許されていますが、神の像を描くことは御言葉によって禁じられており、これらは同じことではありません。そもそも人間の知性などけっして優れたものではなく、それが神の御言葉や神の律法にまさるなどということは、すでにお話しましたとおり、あるはずもなければ、ありえもしません。また、神について書かれたものである聖書を読み進めていけばわかるのですが、神は純粋な霊であり、無限であって天と地に満ちておられます。したがって像をもって表すことはできず、むしろ神を人間と同じかたちあるものとしてしまえば、神が人間と同じように手足を持って椅子に座るのだと考える擬人化という異端に容易に堕ちてしまいます。聖アウグスティヌスが『信仰と信条』という著作の第七章で忌み嫌って述べていることでもあるのですが、そのようなことをする者たちは神への冒瀆に堕ちるのであり、堕落などありえない神の御栄えを、堕落した人間と等価のものへと変えてしまうことになります。キリスト教徒が神殿に神の像を置くのも邪なことですが、それ以上に、心の中にそのような像を持ってそれに信を向けるのは、さらに邪なことです。

キリストの像は造ってよいのか

しかしこのようなことをする者たちは、いまお話したような道理があるにもかかわらず、キリストは肉を得て人となったのだからキリストの像は造られ得るのだと反論します。ただし彼らはまずはっきりと、三位一体である神の像を造ってそれをあらゆる所に置くことが極めて邪なことではあると認めているものの、それは神の御言葉に鑑みて善いものであると考えたからだったとしています。この考えがキリストの像だけではなく他の像にもつながってしまうのです。

そもそもそれは律法に適うのか

 キリストの像は造られ得るのだというこのような説に対して反駁するのは簡単です。神の御言葉による教えでは、そもそも事が為され得るか否かということのみならず、それが神の御心や律法に適っているかどうかということが問われています。あらゆる邪な事柄が、そもそも為されるべきではないのに日々為されています。聖書の言葉には、偶像は神に向けて造られるべきでなく、また造られようもないとあります。したがってキリストの像は造られてもよいのではないかということに対して答えるならば、そのようなものがいわばなんとなく人間の平安を保つことができるのではないかということよりも、そのようなものが造られるのが律法に適っているのかによるということになります。

キリストの像は偽りでしかない

キリストについてはいかなる偶像も造られ得ず、そのようなものは聖書にあるとおり偽りの偶像であるのは明らかです。キリストは神にして人なのです(ロマ1・25)。最も高いところにおられる神についていかなる偶像も造られようがないということを考えれば、偽りの像がキリストの像とされるのは誤りです。キリストの像は誤りであるどころか偽りです。これは気高い魂を持つ聖人の像にも言えることであり、やはり同じように、いかなる像をもってしても代わりとなるものでもよく表せるものでもありません。それゆえ、聖人の像とは魂が神の喜びのうちにある方の像ではなく、むしろ、墓に横たわって腐敗した聖人の肉体を模した像であると言えます。ましてやキリストがどのような体格や特徴を持たれていたのかについては知られていないのですから、その肉体を象った真の像など造られようがありません。

そもそも偶像は偽りである

ギリシアにもローマにも他の多くの土地にもキリストの像はあまたとあるのですが、ひとつとして他と同じものはなく、しかもどれもが、ありえないことに、これこそがキリストの真にして生ける像であると断言して憚られません。ひとたびキリストの像が造られれば、徐々にキリストについて偽りが広められて神の御言葉が忘れられることになります。古代のどの聖人の像についても、やはりその体格も特徴も知られてはいないのですから、同じことが言えます。教えというものは真実に基づいているべきです。偶像は偽りなしには存在しえないものですから造られるべきではなく、教えを広めるために使われるべきでもなく、真の教えと神への務めのためとして教会堂という神殿に置かれるべきでもありません。神や救い主キリストや聖人たちの像はいかなるものも造られようがありません。どうして書物に十分な根拠もないのに正しいものとされるのでしょう。お話しておりますとおり、神や救い主キリストや聖人たちの姿については書物のなかで触れられておらず、偽りや誤りでしかないことは明らかです。書物の中になく、仮にあったとしても偽りか誤りであり、あらゆる誤謬のもととなっています。


今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第3部「偽預言者に注意せよ」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。


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