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すべてのものは神から出る(1)(第二説教集17章1部試訳1) #167

原題:An Homily for the Days of Rogation Week.  That all good things cometh from God. (祈願節週間のための説教~あらゆる善きものは神より出る)

※第1部の試訳は2回に分けてお届けします。その1回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(9分3秒付近まで):




神はこの世を創られ保たれている

 善良にして敬虔なキリスト教徒よ、わたしは今日みなさんに、全能の神に対する極めて大きな讃美と賞讃を述べたいと思います。神の大いなるみ力と知恵があって、わたしたちは神を讃えるとともに畏れることができています。この世を素晴らしくお創りになり、その上でこの世を保たれ統べられているということに思いを致しましょう。また、神が日々わたしたちに多くの実りを授けてくださっていることと、あらゆる利益あるものがそこにあるように全世界をお創りになった神のこの自由で大いなる善性についても思いを致しましょう。神おひとりの善性を十分に思い起こすことを義務として、わたしたちは強い愛着をもってさらに神を愛し、言葉と行いをもって、命あるかぎりいつも神を讃えて神に仕えることができます。このことには詳しくお話をしてみなさんに耳を傾けてもらう価値が大いにあるので、まわりくどい言葉を使って、これからお話することによく注意を払って聞くようにと強く訴える必要はないと確信するところです。ただ一つわたしがみなさんに望むのは、その愛着を自身の中で静かに燃やし、わたしがこれからお話しすることによって知るあらゆることについて、全能の神の善性に対する感謝の気持ちを持つことです。

神を讃美しないのは無知の始まり

そうしなければ、わたしたちへ向けられる神の大いなる善性について話をきいて理解することはできません。どのような善いこともその源泉であり唯一の著者である神から出ているということを理解することもできません。神から授けられたものはどのようなものであっても、すべて善で十全であるということを理解することもできません。もしそのようなことを聞いてもそれを覚えなければ、わたしたちはどうなってしまうのでしょうか。この世の賢い人々は、神を知るために神に誉れや栄えを向けないとしても、神のひそかな霊感によって、神のみ力や聖性についての知識を持てていると言いますが、何がそれを助けているというのでしょうか。世界の始まりについて思いを致し、神の善性を見ていながら、その恵みに対して感謝を献げないでいるとするなら、讃美とは何であるということになるのでしょうか。このように神を棄てるということ以外にどのようなことが盲目や忘恩となるのでしょうか。神を棄てるなどということをすれば、極めて大きな無知や過ちに落ちるほかはなくなるでしょう。彼らは知恵や知識があるのだとして自身を高く見て、自身の博識を自慢していますが、彼らは神に思いを致すことにおいて盲目であり、愚かにもその愚行によって滅びます。知識をもって神の近くにありながら、感謝を持たずに神から遠ざかる者たちには、完全な破滅のほかに他に行きつくところはありません。これをダビデは一生のなかで目にしていました。『詩編』の中で彼は「見よ、あなたから遠ざかる者は滅びる。あなたは背く者を絶たれる(詩73・27)」と言っています。

神を棄てる者には滅びが待っている

 このことは聖なる預言者であるエレミヤにも真理であるとみなされました。彼は「イスラエルの望みである主よ、あなたを棄てる者は皆、恥じ入り、あなたから離れる者は地の中にその名が記される。命の水の泉である主を捨てたからだ(エレ17・13)」と言っています。善良なる人々よ、もしわたしたちの心が神を讃え感謝を献げようと燃えていないならば、神の善性についての話を聞いても得るものはありません。ユダヤの民は神に選ばれた人々ではありましたが、彼らは信仰ある心をもって神に向かってはおらず、彼らに授けられる恩恵に感謝もしていませんでしたから、神について多くのことを聞いても何も得るものはありませんでした。感謝の心がなかったために彼らは破滅に至りました。わたしたちはそのようなことを避け、使徒である聖パウロの示すところに従うべきです。彼は全能の神の奇しきみ業を実際に目の当たりにし、この世を整えられたことにおけるその限りない善性を思い、このように語りました。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです(ロマ11・36)。」この言葉を発してすぐ、この言葉に止まらず、付け加えてこのように言っています。「栄光が神に永遠にありますように。アーメン(同)。」

父と子と聖霊のみ業を覚えるべし

 善良なる人々よ、聖パウロのこの言葉の上に立って、わたしはみなさんに対する今日の訓戒を立てたいと思うのです。そのなかでわたしがお示ししたいのは、第一に、あらゆる善きものは天から、すなわち光ある父のもとからみなさんのところにやって来るということです。第二には、神のみ子である救い主イエス・キリストは、わたしたちが神の無辺の善性を受け取るための仲立ちをされている方であるということです。第三には、聖霊の力と徳において、わたしたちは神からの賜物やみ恵みを受け取るに相応しいとされているということです。このような事柄はわたしたちの中でひとつひとつじっくりと噛みしめられるべきものであり、これによってわたしたちは極めて謙虚な畏敬の念を持ち、定められた務めを果たした上で、わたしたちに対する神のみ業について善き心をもって証言することで、いつでも神に感謝を献げることができます。これは全能の神の栄光のためであり、わたしたちは一つの信仰と愛において、最愛のみ子である救い主を想いながら、あらゆる善なる賜物の、また全き賜物の送り主である慈悲深い神の名を呼び求めるべきです。その中で、わたしたちはおそらく二つの方法によって、つまりわたしたちの魂の救済について話すことと聴くことをともによく行うことで、その聖なる霊の存在に助けられているのです。

神のみ恵みは言葉で言い表せない

 善良なるキリスト教徒たちよ、みなさんにお話をするにあたりはじめに言っておきます。全能の神の素晴らしいみ力や途方もなく大きな知恵について、あたかもそれが言葉によって伝えきることができるものであるかのように、わたしがみなさんにはっきりとお話することができるとは考えないでください。そのような無辺のものが人間の言葉でつかみきれるものであるなどと考えられるべきではありません。塵や灰に帰する人間が創り主について詳しく語れるなどと考えるのはあまりの傲慢です。天使たちでも理解できないほどの神の神聖なる偉大さについて語るなど、死すべき人間の暗い理解と知恵の及ばないはるか向こうにあるものです。わたしたちは人間の理解力を超えてあるそのようなことを無理に試みるのではなく、むしろ自身の能力のなさを覚え、全能の神が持たれる深くてわたしたちの手など届かない本性について遠くに離れて語るべきです。み栄えに与ろうとして好奇心をもってむやみに求めることによってよりも、理解することなどできない神の偉大さを畏敬の念を持って恐れてへりくだった謙遜さをもつことによって、わたしたちはよりよく満たされます。わたしたちはできうる限りに熟考して、自身に向けられる神の善性に応えるべきです。むやみに求めようとするよりも、そうすることでわたしたちははるかに大きなみ恵みをもって満たされます。

神への希望を持てるのは神の恵み

神の大いなるみ力について考えれば、わたしたちは神に対して畏怖の念をもって恐れるほかはなくなります。神の大いなる知恵について考えれば、わたしたちは神に対して何もすることはできないという自身の無力さを目の当たりにするしかありません。ただ、神のとらえようもないほどの善性に思いを致せば、わたしたちは神を信頼しようと心を確かに持つことができます。神の善性によって、わたしたちは生のあらゆるところにおいて、自分たちの慰めや希望や癒しを持たれるみ恵み深い父として神を受け入れようと確固となります。神のみ力や知恵によって、わたしたちは神を、天と地を統べられ、あらゆるものをその下に置かれる、全能にして不可視の神ととらえ、何ものも並び立つことはなく、誰もそのみ業の道理を尋ねることなどないお方であるとすることができます(ダ24・32)。「この侵入者は思うままに振る舞うが、彼に立ち向かう者はいない(同11・16)」とあります。ソロモンは「主はそれに答えてすべてのものを、災いの日のために悪しき者さえも造った(箴16・4)」と言っています。その本性がゆえに、聖書において神は「焼き尽くす火(申4・24、ヘブ12・29)」と、すなわち恐ろしい神とされています。このことからわかるように、わたしたちは神に対してまったく気軽さなど持てず、近づくことすらできません。しかし、神の善性によりその大いなるみ力の厳しさが和らげられ、わたしたちは神が近くにあられ寄り添ってくださっているという希望を確かに抱くことができているのです。

神の善性があって人間は希望を持てる

 聖書において「神の造られたこの地、この世界で楽しみ、人の子らを喜ばせた(箴8・31)」とあるのは、神の善性があってのことです。神がわたしたちをご自身に対して呼ばれ、そのみ恵みをわたしたちに与えてくださっているのは、善性があってのことです。わたしたちが迷っているのを忍耐強く見ておられ、わたしたちが悔い改めに至るのを長い目でみておられるのも善性によるものです。わたしたちが理性をもった被造物としてあるのも神の善性によるものであり、さもなければわたしたちは野蛮な獣となっていました。わたしたちをあまたのキリスト教徒のなかに生まれさせ、それによって救済に与るに近いところにあることができているのも、神のみ恵みによるものです。神の善性がなければ、わたしたちは回教徒のなかに生まれ、神から遠く離れ、永遠の命に与る希望などなかったことでしょう。わたしたちがどのような者であっても、ご自身のみ恵みへとわたしたちを呼ばれてみ言葉を語られる愛ある優しい神の声の他に何が、その善性を明らかにするというのでしょうか。神から離れみ恵みに与る価値もないというのに、神の善性の他に何が、わたしたちが神を呼び求めることや、わたしたちを忍耐強く受け入れて悔い改めに至らせることを可能にしているというのでしょうか。

主こそ神、私たちは主のもの、主の民

このことにかかわり、いま天にあって栄えを与えられている先人たちの言葉をみて、人間のそもそもの創造が神の善性によるのかそうでないのかについて、彼らが出している答えを聞きましょう。ダビデはこのように言いました。「主こそ神と知れ。主が私たちを造られた。私たちは主のもの。主の民、その牧場の羊(詩100・3)。」自分たちの生まれ変わりについて、自分たちが義とされることについて、また自分たちの救いについて問われたら、誰に感謝が向けられるべきなのでしょうか。これらは人間の功績によるのでしょうか、それとも神の善性のみによるのでしょうか。この点については誰もがその核心についてそれぞれ十分に告白してはいますが、ここでそれをすべて取り上げることはできないので、代わってダビデに答えてもらいましょう。「主よ、私たちにではなく、私たちにではなく、あなたの名にこそ、栄光を与えてください。あなたの慈しみとまことのために(同115・1)。」この上でなおも問いますが、神の栄光を讃える言葉や行いはどこから来るのでしょうか。また、どのようにして神は人間から高く崇敬を持たれるのでしょうか。このことを何人かの口で語られている言葉を基に考えましょう。


今回は第二説教集第17章第1部「すべてのものは神から出る」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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