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解説 みだりに御名を唱えてはならない(第一説教集7章1部) #34

原題: A Sermon against Swearing and Perjury. (誓いと偽証について)

第一説教集第7章の解説をします。2部構成になります。まずは第1部です。テーマを聖句で言えばこれでしょう。

主の名をみだりに唱えてはならない。(出エジプト記 20章7節)

第1部のポイントは次の5点です。
①神の御名を唱えるとはどういうことか
②神の御名を唱えるに相応しい場面とは
③神の御名に誓うにあたっての三つの条件
④正しく神の御名に誓うことによる恵み
⑤神の御名をみだりに唱えることの戒め

神の御名をみだりに唱えることは十戒のなかで禁じられてはいるものの、適切に正しく唱える限りにおいては禁じられてはいないということが初めに示されます。

この戒めがより正しく知られて守られるためにみなさんにお話したいのは、キリスト教徒がどのように神の御名を唱えるのが律法に適うことになるのかということと、御名をみだりに口にして冒涜することがどれほど危ういものであるのかということです。

これに続いて、「御名を唱えてよい」時と「御名を唱えてはいけない」時がそれぞれどういう時であるのかが示されます。特に人間の社会では裁判の場で神の御名に誓うことが多くあるのですが、そこで「みだりに」ではなく「適切に正しく」唱えるための3つの条件が示されます。

一つ目として、神の御名を唱えるならば真にそうするべきです。(中略)真実に照らして知っていることを語るべきです。二つ目としては、誓いの言葉を述べるならば、無分別に性急にではなく、誓いがどのようなものであるのかをよく踏まえ、よく考えてそうしなければなりません。三つ目に、神の御名を唱えるならば正しさをもってしなければなりません。自身の汚れのなさと真実を守り、その正しさを守ろうとして、持てる情熱と愛の限りに誓うべきです。

この3つの条件を満たして神の御名に誓うことによって、人は公的にも私的にもさまざまの恵みを得るということが述べられます。

律法に適った約束や契約が誓いの言葉で確かめられることによって、君主や国家は静穏や平安にあって確かな存在となります。神が約束されたとおり、わたしたちがキリストの生ける肢体であることをご覧になっている神の御名を唱えることによって、わたしたちは洗礼の聖奠に与り、信仰を告白します。またやはり神が約束されたとおり、結婚の聖奠によって男女が終生の愛に結ばれてどんな困難や苦しみが起こっても離れないことを誓います。

神の御名によって正しく誓うことで人は恵みを受けますが、そうしていない者に対する戒めが問答のような形で2つ示されます。そのひとつめはこうです。

たとえば、物品を売り買いしている相手が自分を信用してくれないでいて、相手から神の御名にかけて誓うように求められ困ってしまっとしましょう。

もし自分が正しく、行いと言葉が一致しているのなら、神の御名を唱える必要はまったくありません。(中略)実際に信用が失われているから、神の御名にかけて誓わない限り誰からも信用されないと思ってしまうのです。(中略)みだりに神の御名を唱える者ほど信用されません。

もうひとつはこうです。

日常的なやりとりのなかでたくさんの誓いの言葉を用いていることにかかわって、自分は心から神の御名を唱えているというのにどうしてそれが相応しいとされないのかと言う者もいるでしょう。

心から神の御名にかけて誓っているとは言っても、それがよく考えもせず頻繁で、大切でもなくつまらないことに対してであるなら、そこで神の御名を唱えるべきではありません。明らかに過ちを犯しているのであり、最も聖なる神の御名をみだりに口にしているだけです。

神の御名を唱えるのはよい。ただしそれはみだりにではなく、正しくでなければならない。正しく唱えることによって恵みが得られる。ただ漫然と御名を唱えることを戒めて第1部は終わります。


今回は第一説教集第7章「誓いと偽証について」の第1部「みだりに御名を唱えてはならない」の解説でした。次回はこの試訳をお届けします。

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