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「燈す」地元の名刹でのお祭り


伊勢国の漁師が漁を行っているとあるとき、眩い光が海を照らしており、光のせいで魚が全く釣れなくなった。漁師はその光の源を探そうと美濃国へ向かい、釜ヶ谷に観音像があることを突き止める。まばゆい光はそこからきていたため、観音像を釜ヶ谷山頂から麓の長滝に移したことから創建に至ったという最高すぎる由来を持つ甘南寺。
今日はここでお祭りが行われる。

伊自良という土地は人工貯水湖である伊自良湖ができるまで干ばつに困っていた。そこで四百年ほど由緒のある雨乞いの舞が伝えられている。
しかし貯水湖ができ用水路が乾かなくなってから舞は衰退しているという。
この土地はそれほど切実に水に困窮した歴史を持っている。
しかしそれを感じさせないほど美しい水がここ甘南寺から湧き出ている。
去年は舞も見れたのだが、今年はないらしい。


午前の様子



水の撮影はむずかしいけれど、これはなかなかよく写っている

自分は水に恵まれている。一番に太くつながっているのは、ここでも祀られている弁財天。
習合され同一視されているサラスヴァティは「水を持つもの」と呼ばれている。
ここに来たときは自作のフラワーエッセンスを持っていた。
そのことも関係しているのか、”水が出現したところへ自分が来ている”と強く感じる。

これは自分の人生とも構図が似ている。
命を守るため水道水を飲まなくなってから(水道水は悪くはないのだが自分は特殊な環境だった)飲み水に困った。
ペットボトルのそこに溜まった二センチの水で三日を過ごすような家庭内での遭難体験をしていた時間も決して短くはなかった。

岐阜に来てから贅沢に水を飲むことが許された。あふれんばかりの水に囲まれたときの感動と感謝を今でも覚えている。
水への飢えと感謝は、この土地の経験である。
自分が水に恵まれてから四百年の渇きを経て水に恵まれたこの土地へ引っ越してきたのも奇妙な縁である。
水への感謝は、この土地やこの土地で生きてきた先人たちの人生を通して大きな信念となっている。
この滝はこの土地のシンボルであり祝福である。


夏の情緒。画像から蝉の鳴き声が聞こえるくらい


父さんな会社辞めて
とうもろこし焼き職人になろうと思うんだ。


一方そのころ、コーンスープに使った芯をなめとるこかげ。


点灯式を終えた竹灯篭

去年より来客が少なかったとはいえ、今年も数百人を超える人が訪れた。
一体過疎が進む村のどこにこれだけの人を集めるちからがあるのだろうかと思わせられる。なんにせよ活気付くのは素晴らしいことである。
普段は見ない若者やこどもたちもたくさん訪れた。


彩られた手水舎

ここの手水舎は平日であっても花で飾られていることもある。
けれど今日の花は一段と豪奢で彩りに富んでいる。


普段はわびさびの情緒あふれる階段がとてもロマンチックに。


わざとぼかして撮ってみる


精密にくりぬかれている


本堂前の階段の竹灯籠


きっとかぐや姫を見つけた翁もこんな幻想的な気持ちになったのだろうな


普段は道路を鹿やハクビシンが往来する隠れ里のような場所であるが、夏の盛り、この日一日は活気を取り戻す。

この祭りの素晴らしいところは、竹灯籠を選ぶという高度な文化度にあると思われる。人や活気を思い政策に取り組む市は多いが、文化や美学を置き去りにする傾向にある。なぜなら役所という場所は高い文化度や審美眼を養うに適した場所ではないため、同時にそこに勤める人間のアート性も必然と高度になることはない。
遊びのないところに人は来ない。つまらないからだ。
非日常を演出するには遊びの精神性とそれを叶える高いスキルが必要になる。
こういったバイアスを加味するならば、祭りの内容を役所の人間以外が考え実行する。役員はそれの補佐と裏役という構図が必要になる。
しかし遊びの精神性はともかく高い芸術スキルを持つ人間はさらなるスキルの上昇を求めて上京する傾向にある。
したがって地元の祭りなのに東京から人を呼ばなければならないというジレンマにぶつかる。
そして実態はともかく伝統的であるという制約をクリアしなければならないという点も重要である。
東京から人を呼び景観台無しの直島の赤かぼちゃのような真似をしてはいけない。いくら作者が高名と言おうとも。(と自分は考えている。あの手法はアート性と文化性が反比例している。)

祭りひとつをとっても———いや地元の祭りだからこそ普段は鳴りを潜めている文化度という一つの側面が浮き彫りになる。
奇抜さや物珍しさに走らず地元の祭りを運営するということはやはり想像以上に難しいはずである。

燈すの美点はほかにもある。
それは規模が非常にちょうどいいというという点だ。
普段は持て余す広い駐車場やスペースを活用する、けれどもそれに余るほど多く喧伝しすぎない。自分たちの持つリソースを正確に裁量し、ちょうどいい塩梅に努める。
夕張市のように広大な土地へ莫大な資金をつぎ込んでテーマパークを作りそして運営に困り放棄するなどが特徴的な失敗例であるといえる。
「燈す」は毎年の継続性も視野に入っているといえる。

願わくばこのような活動が長く続き、灰色に見える(自分には見えないがご老人にはそう見えているだろう)退屈な田舎が活気と遊びで溢れんことを。

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