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芸術大学は芸術を教えるか?②

アートを始めるまで

 前回の投稿からしばらく経ってしまったが、「芸術大学は芸術を教えるか」というテーマで、いくつかのエピソードに分けて、いろいろな角度から書いてみようと思う。今回は、スポーツと芸術についてと、芸術大学に入るまでの話をすこし。

「いつも整っていて長いピカピカのネイルをまとってハイヒールを履いた、強くて美しい女性になるんだ!」と、日曜洋画劇場にかなり影響された夢を幼い頃は持っていた。しかし現在私はベルリン芸術大学に在籍しながら、いろいろなメディア(表現手法)を用いて作品をつくるといった、当初の夢とはかけ離れた今に至っている。

村から出る

 私は人口1万人ほどの沖縄にあるちいさな村に生まれ、海と山に囲まれた自然の中で育った。誰が何をしているのか、誰がどこの子なのか、どんな振る舞いをする子なのか、みんなが他のみんなを知っている、そんな透明な村で生まれ育った。それだからか、自分がどんな人間なのかを自分自身が認識するよりもずっと前に、他の人が私のことをよく知っているようだった。
 ある年齢に達すると、私はいろいろな習い事を始めた。海や山など大きくて動かない、変わらない景色に囲まれた村で生活していたからか、外に出たい、新しいことを知りたい、学びたいという強い欲求が膨れ上がっていった。
 7歳ごろから毎日違った習い事に通い始めるようになり、そのなかで様々な人との関係性が生まれた。同世代の子どもたちと知り合うこともそうだが、あらゆる大人たちと関わることが増えた。その大人たちから習い、教えてもらうことによって、自分自身がどういう人間なのかを教えられたように思う。あなたにはこういう癖がある、こういう性格や考え方を持っている、だからこうしよう、ああしよう、といったように。身体的、精神的に私がどういう人間なのかを知らされ、その中で私のアイデンティティの大部分が形成されたと、振り返ってみて思う。他者との関係性の中で、他者が持つ私のイメージの範囲内で、「私」という活動を当時はまだしていた。 
 また学ぶことは、どの習い事においてもだいたい反省することから始まった。あるべき姿や状態というものが明確にあって、それに向かって自分自身とその目的との距離を縮めていく作業。その距離が昨日より遠のけば反省し、修正する。この反復作業が当時の私にとって学ぶ、ということであり、自分自身を向上させることの意味だった。

美しさとの出逢い

 習い事の中で一番長く続けたのが、8歳から18歳の10年間に渡って夢中になっていた新体操だった。
「美しい。」
 新体操を初めて目にした瞬間、単純にそう思い、一瞬で好きになった。幼い頃からずっと女性性に魅力を感じていた私は、一貫して女性がこの世で圧倒的に美しい、と物心がついたときから信じていた。そして新体操はそれを確信させるスポーツだった。選手の身体と身体の動き、顔の表情そのものが美しく、身にまとうばかりの美しさから独立した、本物の美しい人間に私もなりたい、と思って競技を始めた。
 それから間もなくして、沖縄県で全国インターハイが開催される最後の年と、ちょうど私が高校3年生になった年とが重なることを、当時9歳だった私は知らされた。そのインターハイ開催が決まってから、当時所属していたクラブチームの仲間と一緒に約10年間、その大会に向かってほぼ毎日練習を重ねた。全員足並みをそろえて同じ高校へと進学し、家、学校、体育館の三角形内でずっと生活をしていた。

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  ある合宿での夜。コーチが持ってきたブルガリアのナショナルチームのドキュメンタリー映像をクラブの仲間と見ていた。その中で、ネシュカ監督が「美とはなにか?」との質問を受け、
「美とは完璧、ということです。」
と断言していた。彼女の美に対する概念とまなざしの圧倒的な強さに、どきりとした。どの美へと自分は向かうのか。それが明確で、自分自身への疑いがまったくない彼女の完璧さが私にはないと痛感した。
 新体操は芸術性の高いスポーツだが、もちろん競技なので難度の完成度によって得点が左右され、勝敗が決まる。それも含めて「美は完璧」という考えに深く共感した私はそれ以来、完璧を目指して練習を続けた。新体操を見た瞬間に思ったあの「美しい」になりたい一心だった。しかし、努力して到達できる美しさの境地と、到達できない美しさの境地があることを、10年の間によく思い知った。ロシア人のようなプロポーションには到底なれないのに、思春期に脚と身長の成長が止まったときにはいささかショックを受けた。細くてシャープな、芯の強い身体になれなかったことにも。また正しい姿勢で180°以上開脚できるよう毎回泣き出しそうになるトレーニングを長年続けても、ついにそれを獲得することはできなかった。
「私の身体は完璧でないどころか、不完全。」そう思い始めた私は、ハンディキャップを抱えてしまった気さえしていた。不可能な身体で生まれたのだと、自分を否定するようになっていったものの、一歩体育館から出れば、また「通常」の可能な身体に戻っていった。その2つの身体を行き来しながら、万能な身体にいつか転換するんだと反省、修正を繰り返していた。

2つのドア

 大学には進学したいと思っていた私にとって、インターハイが近づくことは、大学受験が近づくことも意味していた。しかしそれと同時に、オリンピック強化チームの日本代表監督やコーチらから直接指導を受けたりと集中合宿の頻度も増え、大会への緊張感はどんどんと高まっていた。大学受験もインターハイも現実なのに、日常と非日常の間を行き来しているような感覚。どちらも同じように大事で、でも全く違う2つの世界が同時に存在していて、どちらからも落っこちないよう懸命に毎日を過ごしていた。
 一方の世界の中にいるその瞬間、もう一方の世界のドアは完全に閉まっていなければいけない。そのドアが少しでも開いてしまっていたら、一気に大波が押し寄せて飲み込まれてしまう。しかし、私のドアは少し開いていた。このまま受験勉強をせずに練習ばかり続けていていいのか、競技が終わったあと、私はどこへ行ってしまうのか。高校や塾の同級生たちはすでに受験モードに入っていて、そんな考えがよく頭をよぎるようになっていた。まずい、いけない、それどころじゃない!と思ってその世界のドアを閉め、1つの世界にだけ閉じこもり、集中しなきゃと軌道修正しようとした時にはもう遅かった。本当に一瞬のそのよろめきが、これまで積み上げてきた10年間をあっという間に超え、気がついたときにはもう大波に飲み込まれて、溺れていた。
 私は選抜選手から外れ、最後のインターハイには補欠としてその舞台袖に立って仲間を応援していた。その後国体には出場させてもらえたものの、自分の姿勢に対して完璧になれなかったのだという無念が残った。ここには到底書ききれないことを色々と経験したが、競技生活を終えたあと、あらゆる場面や出逢った指導者たちからかけられた言葉をよく思い出していた。そして突然ふと思い出すのはいつもなぜか、あのネシュカ監督の鋭くて強い目だった。あの日完璧になろうと思った日から、どれだけ私は美に近づけたのだろうか。自分の目指す場所に、目指す美に対して、どれだけ疑いなく完璧な姿勢で向きあっていられただろうか。なぜあのとき、私のドアは開いてしまっていたのだろうか。そんなことを考えていると、しばらくずっと、心が動かなくなってしまっていた。 

デニーズのティッシュ×ジェットストリーム

 志望大学は1つだけだった。そしてその大学に運良く合格し、望んでいた大学生活が始まった。毎日が新鮮で新しいものばかりに出逢う生活を送っていたが、体育館に通わなくなった毎日はある意味日常の連続で、私の世界は1つに集約された。「世界は1つの方が生きやすい。」心からそう思いながら気軽に、でもそれを噛み締めながら生きていた。そしていつからか2つの世界を行き来していたことを忘れ始めていた。なにかを喪失したのではなくて忘れたのだと、これまでの出来事がトラウマにならないよう、無意識のうちにそう解釈するようにしていたのだと思う。

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 大学の最寄り駅の東口を出るとすぐあるデニーズに私はよく通い、友達とご飯を食べたりグルワをしたりしていた。店を出る間際にはいつも、あのすこし硬くて表面がツルツルしたティッシュを数枚抜き取って、カバンのなかにしのばせた。デニーズのティッシュとジェットストリームは相性が良くて、暇があればいつもなんとなしに文字を書いていた。その日もちょうどキャンパスでたらたらと文字を書いていたのだが、そこに居合わせたフォトグラファーの学生が、
「それ、続けたほうがいいよ、絶対。」
と、突然声をかけてきた。長らく書道を習っていたこともあるが、私は文字を書くことがずっと好きだった。書く必要のない文字を書いていた私に気を止めて、変だと言わずに続けろと言ってきたのは、彼女が初めてだった。そしてストレートパーマでまっすぐに伸ばされた私の髪をみて、「生まれたままがいいよ。それが合ってるんだから。」と隣でいつも言い続けていたのも彼女だった。

小田急線での出逢い

 その日以来フォトグラファーの彼女と一気に意気投合し、よく一緒に出かけるようになった。そんなある日、2人で小田急線に乗っていると年老いたおじいちゃんが乗ってきた。席を譲ったほうがいいだろうと思うほどの高齢だったので声を掛け、自分が座っていた席を譲った。その人はありがとうと言って腰を掛け、しばらくして私がどこから来たのか尋ねた。
「沖縄です。」
そう答えると、
「ああ、私はむかし、ふうど、って書いたことがあるんですよ。」
と、大変失礼ながらも少しボケているのかな?と思うような返事が返ってきた。
「ふうど?うーん、Food??」
と聞き返すと、
「ええ、風と土、って書いてね。」
とゆっくり、やさしく教えてくれた。話を聞いているとその人がどうやら書家であることを知り、なんだか運命を感じて次の日から稽古をつけてもらえないかと尋ねた。「この歳になってまで弟子をとりたくないですねぇ。」と断られたが、それでもどうにかと頼み込み、翌日、彼の自宅兼アトリエを訪問さえてもらえることになった。

『風土』のある家

 師となった秀石先生は所属していた流派を離れ(通常書の世界で書家は、それぞれの流派や師の持つ会などに所属している)、もう何十年も無所属で書をされてきている方だった。玄関に入ると、大きな風土の文字が私を出迎えた。ふすまを開けると洗濯物のように干された書きたての書が部屋中に干され、久しぶりの墨の香りに嬉しくなった。間もなくして彼はクラシック音楽をCDプレーヤーから流し、
「これをよく、心で聴いてみてください。」
と言った。
「書くときには、リズムが大事、でしょう。私のリズムは、これなんです。私は踊って、書くし、私の書も、踊っている。あなたの、リズムは?」
彼の発する言葉そのものも、動きも、そして書も彼のその独特のリズムにのっていて、昔あった非日常の世界を思い出した。そして、新体操を初めて見たあの日のように、「美しい」と思った。そしてそれは、完璧な美とはまた違う美しさだった。

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*写真は当時仲良くしていたフォトグラファーが撮影した。

 その日から週に1回のお稽古が始まり、彼が亡くなるまでの半年間続いた。あの大和駅から少し離れた、時と精神の部屋のような場所に入ると、日常の世界から完全に切り離された。ただただ、墨と向き合うだけの時間を過ごした。彼はいつも、「私の真似なんか、先生の真似なんか、しなくていい。」と言った。
「たくさん、勉強しなさい。あなた、もっと知りなさい。本を読んだり、いろんなものを、見たりして。そして、ああ、これはいいなあ、と、思うものを見つけて。いつも写真を撮ってくれている、ほら、彼女には、帰り道になにか、奢ってやんなさい。大切な人を、ちゃんと大切にして。そして、自分で自分の書を、見つけてください。」
 反省や修正の繰り返しといった習い方ではなく、墨や紙、音と自分との関係性を築き上げていくような、そんな習い方をしたのは初めてだった。そして、自分の哲学はなにか、をいつも考えさせられた。書の師と呼べる人は、これまでもこれからも、彼以外にはいない。

2つの世界が交わるとき

 彼をなくしてからも、書は自分なりにゆっくりと続けてきた。そして当時声をかけてくれたフォトグラファーと一緒に、気がつけば写真と書を組み合わせた作品をつくり始めていた。彼女と写真を撮りにまわった旅もまた、いつもの生活から切り離された場所にあった。私は次第に、以前とはまた違う、もう1つの異世界を持つようになっていった。そしてその新しい世界の中で私は、これまで誰かに教わってきた私という存在ではない私を生きていた。そしていつもの時間軸や常識が存在しないその世界の中でだけ、「美しい」をとことん追いかけることができた。

 しばらくして、2つの世界が交わるときがまたやってきた。就活の時期を迎え、周りの同級生たちは会社訪問やインターンなどに忙しくしていた。仕事を見つけて始めたとしてもすぐやめることだろうと思った私は、特に何もせずにいた。また、日本のなかで沖縄以外の場所に住むことにも少しずつ息苦しさを感じていた。
「誰かが望むチャンスを掴んで奪ってしまうんだったら、就活とかそういうの、やめたほうがいいね。」
その母の言葉が胸に刺さり、また2つの世界を沖縄で共存させられる自信もなかったので、世界中で本当に自由に、徹底的に、そして自分のままで生きられる場所をフォトグラファーの友人と旅をして探し回った。そしてあらゆる都市をまわった後に行き着いたベルリンで「ここなら生きやすそう!」と直感し、拠点を移すことにした。

日本を離れる

 大学を卒業する少し前、私は両親に1年間金銭的にサポートしてもらうよう頭を下げた。「ええ、あんたが芸術??」と私の突然の申し出に驚いていたものの、「自分の人生は自分で決めて、そのあとは自己責任でね。」とサポートしてもらえることになった。ただ1つ、最初の1年の間に国立の芸術大学に合格して勉学に励むならサポートする、ということが条件だった。道ばたではなく大学で芸術/アートを学ぶという選択は、私にとって非常にいい選択だったと思う。(理由は他の回で細かくまた……。)
 なぜ私が芸術にたどり着いたのか、なぜ日本を離れたいのか、理由はたくさんたくさんあったが、それを親にも誰にも伝えようと思わなかった私は、「ただこれをしたい!」を突き通すだけのよくわからない存在だったと思う。それでも、「したいことがあるなら、したらいいさ。」とだけ言って、両親は私を止めずに後押ししてくれた。親しい人の中に私を止める存在がいないというだけで、私は向かいたい方向へと一気に走り出すことができた。これには本当に感謝している。また実家を継ぐ運命にある長男の兄とは違って、女に生まれただけで私は好き勝手に生きてきた。生まれた順番や性別といった些細な違いによって余計な抵抗や努力をせずに済んだ私は、ラッキーだった。ただそんな時代は、もう私たちの世代で終わらせたい。
 そして私は両親を支える側ではなく、両親から協力を得られる側にいる。それがどんなにありがたいことか、様々な人との出逢いのなかで知らされた。自分ひとりでやってこれたことはひとつもない。

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 ドイツに渡ってからは必死にドイツ語を勉強しつつ、ポートフォリオをつくったり、いろいろな教授や大学を訪問したりしていた。そんな中、活動を共にするつもりで一緒に渡独したフォトグラファーの友人が日本へと完全帰国した。ひとりになった、と思った。また1年のうち5回も引っ越しをしなければいけなかったりと、目まぐるしい変化のなかで、精神的・物理的に不安定な状況にしばらく陥っていった。日本にいれば簡単にできていたことができず、想像もつかない出来事が起こる毎日の連続だった。それでも縁あって第一志望だったベルリン芸術大学に合格でき、現在まで学んでいる。そしてその頃からちょうど、いなくなった相方の彼女がしていた写真を穴埋めするため、カメラを手に取り始めた。一度自分で写真を撮りだすと面白くなって、書だけにこだわらず映像も撮り始めたりと、メディア・アート作品もだんだんとつくるようになった。

スポーツと芸術

 スポーツと芸術は、どこか似ている。どちらも少し、いつもの生活から離れている。より高く飛べてより美しく回れても、紙の上でどんな線が引けようとも、文脈外の「普通」の生活の中でそれらは特段意味をなさない。一方の世界で意味をなすのかなさないのか。それを続ける意味はあるのか。そんなことばかりを考えていたら、本当に息をして生きたい場所ではないところで立ち止まってしまい、人生はいつの間にか終わってしまう。そんなことでは、生きているうちに本物までたどり着けない。それでも明日はやってくる。食べ物を食べて、暖かく眠れる場所を確保して、運が良ければ楽しいと思える仕事をして、1日をまた生きる。これから自分は本当にどう生きたいのかを考えようとしても、実際のところ自分はどう生きれるのか、ばかりを考えてしまっていた。インターハイを目指していた頃のデジャヴュのようだった。
 インターハイという大義名分のもと部活をしている高校生、という枠に収まっていた間は、周りから素直に応援されることが多かった。しかし「大人」の歳になるとそれは変わった。「芸術を真剣にやりたい」という目的に向かおうとすると、ジャッジされることが増えた。社会や周りからのプレッシャー、自らが生み出す邪念や不安を取り払えずにぐだぐだしていた私はそのとき、日本を離れようと決めた。そして、大切な2つの世界が共存しやすい場所を見つけて逃げてきた。もう言い訳できない、逃げられない、と思うところまで逃げてきた。
 弱くて、大丈夫だと思える場所でなければ生きていけなかったから、私はいまベルリンにいる。自分の人生を誰かにうまく説明するために生きているわけじゃない。これから出逢う人、これまで仲良くしてきた人、みんなに分かってもらえる生き方じゃなくていい。そう思えるようになってからは、自分を自分で生きていると思う。

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 日本を離れた瞬間から自由に生きられたかというと、正直そうでもなかった。考え方やものの見方、捉え方、生活の仕方、自分自身がまるまる変わって、全てのことに適応していくのには、思った以上に時間がかかった。覚悟を決めてドイツにやって来た、と思ったが、渡独してから3年くらいはよく、自分自身を奮い立たせなければいけないことが多かった。朝起きて、こんなところまで来てなにをやっているんだろうかと、天井としばらく対峙することを繰り返す時期もあった。私はずっと、覚悟することは、漫画やドラマのようにそう決めた瞬間にするものだと思っていた。けれども実際は違って、とてもゆっくりと、本当にゆっくりと、自分が思っていた時間の何十倍もの時間をかけて、だんだんと覚悟は決まっていった。覚悟を決めようという意識を保てないところまで行き着いてそれはかたまり、気がつけば肩の力はすでに抜けていて、覚悟が決まった状態にいるのである。
 あのときのデジャヴュは、もう見ない。いまは2つの世界のドアが半開きでも、それぞれの世界に大波は押し寄せず、溺れずに生きている。

 大学では、現代アートを学んでいる。現代アートは直感的な「美しい」よりもコンセプト、作家の社会的・政治的主張、リサーチ内容、瞬発性などに価値が見出される分野だ。私はその世界に足を踏み入れていながらも、創作を続けようと思う根っこはやはり、書から来る「美しい」である。アートとは少し違う、言葉を介さなくても成立する「芸術」。見た、聞いた、感じた瞬間に心が「美しい」と動くようなもの。そういう意味で、私にとってアートと芸術は大きく異なる。

 いつもの世界を忘れて無になると、これまで見たことのない「美しい」に向かってただ走り続けられる。そして「美しい」に出逢っていつもの世界に戻ると、その変わらない世界が違って見える。みんなとではなくても、誰かと、その誰かがたった一人だとしても、言語や文化、分野を越えて必ず共有できるものだと信じている。そして誰かと一緒に見る景色は、心に絶えない炎をもたらす。だからこれからも、アートとともに、芸術をやっていく。

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