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「アフリカアジアの宗教性に関するターミノロジー」比較がとても面白い(前半)(第1回、第2回勉強会まとめ)

今週末の第3回目の勉強会を前に、第1回目、第2回目の勉強会で気づいた点、面白かった点についてまとめました。

発表者の先生方

11月に慶應義塾大学で実施した第1回目の勉強会では、インドネシア研究の野中葉先生(慶応義塾大学)、ネパールの宗教x政治研究の丹羽充先生(共愛学園前橋国際大学)、ケニアのドゥルマ社会における呪術を研究されている浜本 満先生(一橋大学)、インド研究の山下 博司先生(東北大学)と、セネガルのイスラームやスーフィズムを研究している阿毛香絵(報告者・京都大学)の5人が報告しました。

写真 第1回勉強会(慶應三田) 阿毛・丹羽先生・樫尾先生・島薗先生(実地参加)

12月の第2回目に京都大学の稲盛財団記念館で実施した勉強会では、日本の宗教研究を代表する島薗 進先生(大正大学)、ウガンダの宗教・呪術研究がご専門の梅屋潔(神戸大学)先生にそれぞれ報告をいただきました。


明日(1月20日)のターミノロジーVol3研究会の情報は以下の通りです。お時間ありましたらジョインください↓
https://note.com/resm/n/n223b609a9fa7

ターミノロジーの比較

「ターミノロジー」、つまりはことばの由来や定義、ということですが、アフリカ、アジアの宗教性研究を代表される先生方に、それぞれのフィールドにおいて、そもそも「宗教」という語がどういう意味をもっているか、宗教や宗教性にまつわるボキャブラリーが現地ではどういう現地の言葉で表現されているか、またそれと、私たちが日本語で認識する「宗教」や英語の「Religion」とは、どういう概念のズレや相違があるかないのか、などといったことをこの勉強会で初めに話し合おう、ということになりました。
 この勉強会では、「宗教性」と現代の社会、特に人々の日々の営みを含む「下からの政治」についてアフリカ・アジアの異なる事例を通して比較研究をすることを目的としていますが、そもそも、それぞれの参加者のフィールドによって「宗教」や「宗教性」に関する定義が違うと、もちろん対象となる事象も変わりますし、同じ語を使っていても、考えていること、言っていることがかみあわない、議論が食い違ってしまう、ということが起きると想定されます。
 また、それぞれの研究者にとって、自分の知らないアフリカやアジアのフィールドで、「宗教的なるもの」がどういうバランスやどういう理解で現地の感覚に浸透しているか、それがどういうふうに研究対象になってきたかについて知るのは、非常に刺激的です。
ということで、こちらに2回の勉強会で得た議論の中から、いくつか興味深かったポイントをまとめました。

写真 第1回勉強会(慶應三田) 阿毛・樫尾先生・丹羽先生

イスラーム由来のDine(ディーン)やアラビア語語源のことばと現地の表現

それぞれの先生方の専門領域や、専門地域が違い、またフィールドそのもののありようも違う。そうした中で、それぞれのフィールドにおける「宗教」や「宗教性」の定義も大きく異なることが分かりました。

 イスラームがある程度、あるいは相当程度浸透した地域、例えばインドネシア、セネガル、そしてケニアやウガンダのスワヒリ語圏でも、アラビア語由来の「Dine(ディーン)」由来の言葉が現地で用いられています。 
 また、これらの地域に共通する点なのですが、現地にはそれぞれ地域の言葉で「Dine」のなかにうまく入らない「宗教的なるもの」や「宗教性」、「宗教組織」、「信仰」「伝統的価値」「霊性」などを表すことばがあることが報告されました。
 例えば、野中先生の発表の中で出たインドネシアの雑多な現地の宗教体系や実践を表す「Keperchayaan(クパルチャヤーン)」は、「慣習(Adat)」ともとらえられ、土着な、アニミズム的信仰などを合わせた「体系だっていない」宗教的実践としてとらえられているようです。

 同じくイスラーム圏のセネガルでは、一般的にイスラームの信仰や宗教を表すときに「Dine(ディーネ)」という語を使いますが、それ以外に現地の価値や精神文化を表す単語もあります。必ずしも宗教的な文脈とは限りませんが、現地の価値体系を表した「Chosan(チョサン)」が、 「文化」「伝統」「価値」といった意味合いをもったり、アラビア語語源の「Aada アーダ」 も、ウォロフ語化された文脈では、「ヨーロッパの影響を受けずに生き続けているウォロフ文化の伝統」を意味するようにもなっています。

 浜本先生の報告したドゥルマ社会では、アラビア語源スワヒリ語の「Dini」は、イスラームに限らず、「ある種の信仰体系に入る」ことを意味するそうです。しかし、浜本先生が調査されてきた「呪術的信仰をもつ」と言われるドゥルマの人々は、自分たちには「Dini」はない、といいます。ドゥルマの地域にいわゆる体系だった「宗教ーDini」であるイスラームが普及しなかった理由として、Diniに「入る」ためには、「ドゥルマのやりかた」から出なくてはならない、つまり親族との関係性やありとあらゆる地域に根差した儀礼との関わりを絶たなくてはならないため、非常に敷居が高かった、ということでした。しかし、こうした敷居の高さを回避するために、現地の呪術なかに「イスラーム教徒を憑依霊として取り込む」というやり方があるそうです。この話には後でもう一度戻りますが、とても面白いやりかたです。
 梅谷先生の報告の中でもスワヒリ語の「Dini」がよそよそしい外来語という印象なのに対し、より実践的な現地の表現ー供儀を表す「lamirok ラム」(狭義には、呪詛(curse)のこと)や、霊あらわす「tipo 影」などの表現が説明されました。面白いのが、こうした「tipo」が人々の世界の認識、ひいてはおおやけの政治にまで大きく影響することです。

写真 第1回勉強会(慶應三田) ZOOM参加の山下先生(左上)、阿毛(中央上)、野中先生(右上)、飛内先生(左下)、島薗先生(中央下)、浜本先生(右下)

 体系だった宗教体系や、一つの宗教組織などのまとまりに組み入れられない宗教観が現地の社会のありかたにどう紐づいていくのか、ひとつひとつのフィールドにおける事例と「宗教性」をとりまく単語軍がどういう関係にあるかについて見ていくのが大事だと考えさせられました。

長くなったので、続きは後編で
→ 後編

(文責 阿毛香絵)


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